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 夏は夜が遠い。八時も半ばを過ぎてようやく色を変え始めた空は、時間の感覚を確実に狂わせている。差し込む橙の光にふと時計を見ると、予想を超過した時刻が示されているのなんて日常茶飯事だ。
 その代わりにと言うべきか、朝が訪れるのは随分と早かった。いっそのこと夜など失くなってしまえばいいのに、と同田貫は思う。眠らずに生きていけたなら、どれだけ幸せだろうか。

 暗闇の中、ゆっくりと起き上がり耳を澄ませる。三十センチと距離を置かず敷かれた布団の上で響く、健やかな寝息を確認すると、同田貫は足音を忍ばせ寝室を抜け出した。
 湿った夜風に晒される縁側に腰を下ろし、柱にぶら下がる蚊取り線香に火をつける。燃え尽きる頃には朝が来るだろう。
 くゆる白を眺め、ともすれば睡魔に呑み込まれてしまいそうな意識をどうにか保った。せめて辺りが明るくなるまでは起きていたい。三日月が目を覚ます頃に布団に戻って、ほんの少し体を休ませるだけなら悪夢を見ることもないはずだ。
 昨日、それに一昨日と、碌に眠っていない同田貫にとっては苦行にも等しい静かな時間が流れる。
 こんな生活が長続きしないことは知っていた。どうせいつかは眠らなければならないし、遅かれ早かれ悪夢は追ってくる。所詮は単なる悪足掻きだ。

 胡座を掻いた足に蚊が止まる。血を吸い上げ、腹を膨らませていく光景をなんとはなしに眺めていると、ふいに床板が軋んだ。胡乱な目付きで音のした方向を見やれば、そこには三日月の姿がある。寝乱れた髪を梳く三日月は眠たげに欠伸を漏らした。
「眠れんのか」
 傍らに腰をおろす三日月から視線を逸らし、同田貫はゆっくりと頷く。休息を求める体にも、三日月にも、嘘を吐かないと意識を保っていられない。

 起こすつもりはなかったのだが、と気まずく思う同田貫を余所に、三日月は「花に水をやりたいんだが、じょうろが壊れてしまった」と溜め息をこぼした。花というと、なだらかな坂を下った先にある薄雪草を指しているのだろう。暑さのせいでへたっているのは何も人間だけではない。力なく俯き、濁った色を浮かべた花弁を昨日見たばかりだ。
「もう随分昔のことになるが、暮らしていた邸の庭に咲いていてな。あれを見ると当時を思い出す」
 枯らしてしまうのは惜しい、と三日月は言う。 

 思えば、三日月が自らの過去や生い立ちに触れたことは一度たりともない。知り合って間もない同田貫に詮索されることを好まないだろうと、意識的に避けている話題でもあった。だからと言って興味がないわけではない。
 沸き上がる好奇心の赴くまま、耳を聳てる同田貫だったが、しかしそれ以上声が続くことはなかった。懐古に浸る横顔が月明かりに照らされ、幻想的な雰囲気を醸し出す。
 俗世との関わりを碌に感じられないこの三日月という男は、どんな幼少期を過ごし、どんな環境に身を置いていたのだろうか。ごく平凡な家庭で育った同田貫には、恐らく縁のない世界である気がする。

 枯らさぬように手を加え、常に傍らで感じていたいと思えるような過去なんて同田貫にはなかった。十六年と少しを振り返ってみて、甦る記憶はくだらないものばかりだ。どちらかと言えば忘れたいことの方が多い。ここ一年ほどの記憶は特にそうだった。
 悪夢に悩まされた日々など今すぐ忘れてしまいたい。忘れたそばから更新され続ける未来が目に見えていたけれど、蓄積されてきたものをリセット出来るだけでも充分だ。日を増すごとに鮮明になっていく感覚から、逃れられるならなんだっていい。
「――俺が、すべてを忘れさせてやれたなら良かったな」
 ふと、三日月が口にした言葉に、同田貫の心臓が跳ねた。まるで思考を見透かしたような台詞だ。
「だがなあ、俺は少しばかり人に染まりすぎた。昔よりずっと、狡く我儘だ」
 続く自嘲めいた声に、戸惑いを覚える。
 その声音も、並べられる言葉も、何もかもが三日月には似つかわしくない。そこに秘められた真意を計りきれないのは、同田貫が子供だからだろうか。まぶたに重くのし掛かる睡気が、頭を鈍らせている。

 それからどれくらいの時間が経ったのか、時折うとうとと意識をとろかせながら、同田貫は何を口にするでもなく蒸した空気の中に座り込んでいた。
 ふいに動いた傍らの気配に、反射的に顔を上げると、額に軽い衝撃が走る。まるで子供の熱を計るように、三日月がその秀でた額を突き合わせているのだと気付いたのは、目元を縁取る繊毛がこすれあった瞬間だった。微睡みの立ちこめる意識の隅で、まぶたに触れた柔らかな感触を捉える。

「まじないだ。今日ばかりは正国が深く眠れるように」
 三日月の声が、ひどくあたたかい。
 木漏れ日の中、揺りかごに沈みオルゴールの音色に包まれ眠る赤子にでもなった気分だ。辺りに充満する夜の気配がぽつりぽつりと滲んでいく。
 完全に意識を手放す寸前、耳たぶを掠めた小さな声が意味を成すことはない。








 皺だらけのプリントの上に真っ白な雫が落ちる。
 続けざまに滴り、見る見るうちに大きく広がっていく様子を、同田貫はまとわりつく暑さに朦朧としながら見つめていた。並ぶゴシック体の文字がぼやけ始めた頃、台所から三日月の声が響く。
「正国、いいのか? それは学校に提出するものだろう」 
「ん、うわ……っやべぇ」
 たちまち覚醒した同田貫は、咥えたアイスを慌てて食べつくし、甘ったるい水たまりを布巾でこすった。しかし案の定というべきか、不吉な音と共に破れたプリントを呆然と見下ろす。からからと愉快げに笑う三日月を睨み、ついでに後方へと強いまなざしを向けた。
 そこに鎮座する背の低い扇風機は微動だにしない。
 同田貫が訪れた当初から欠けた羽根を懸命に回し、ぬるい風を生み出していた扇風機は、今朝方とうとうあの世へ旅立った。そして、この家にクーラーなんて文明の利器は設置されていない。
 とどのつまり、室内はいま異様な熱気に包まれているのだ。

 なにも四十度を超えんとする猛暑日に壊れなくてもいいのに、と間の悪さに怒りを覚えながらテレビを切る。昼の情報番組はどこも、この夏最高の気温がどうこうと囃し立て、暑さに喘ぐ人々を映すばかりで鬱陶しい。
 ほんの二月前の予想では冷夏と言われていたはずだが、今ではそんな話はすっかりなかったことにされている。気象予報士の言葉に騙されるのは毎年の恒例行事だ。
 心頭滅却すれば火もまた涼し、という格言を信じペンを握っていた同田貫も、とうとう空欄だらけのプリントを放って畳の上に身を投げ出す。
 縁側からは温風が申し訳程度に吹き込んで、湿った額を撫ぜていった。気休めにもならないどころか、火照った体を余計に煽るような風だ。

「正国や、めんつゆをどこにしまったか知らんか」
「あ゛ー……一昨日切れたろ。たしか親子丼作ったとき」
「そうだったか、いや困ったな」
 三日月が懲りもせず冷麦を茹でているのは知っていたが、正直なところ食欲はない。アイスの棒から染みだす甘みで今は充分だと、行儀悪く歯を立てる。
 天井に浮き上がる染みを数え、次から次へと垂れる汗を拭いもせずに横たわっていると、換気扇の音が止んだ。同田貫に被さった影の先には、こちらを見下ろす三日月の姿がある。
「外の方がいくらか涼しい。めんつゆの調達ついでに家電屋を見に行こう。預かり物を熱中症にするわけにもいかん」
 言いながら三日月は手を差し出した。鬱陶しげに耳にかけた髪のすきまから、汗の滲んだこめかみが覗いていて、身じろぐたびに陽が反射するのが眩しい。
 逡巡ののち、握り返した手はうっすらと湿り火照っていた。重なった熱にたちまち汗が噴き出す。溶けそうなほど、あつい。



 燦々と降りそそぐ太陽を恨めしく思う道すがら、点在する木陰で涼む。落ち着きなくうろうろと動き回る同田貫に、三日月は「あまり動き回るともっと汗をかくぞ」と呆れた笑みを浮かべていたが、焼け付く日差しからは出来るかぎり逃れたい。
 それに、三日月と並んで歩くと余計にあつくてたまらないのだ。夏は人をおかしくする。頭も、体も、心も、全部。

 既に通い慣れた寂れたスーパーで目当ての物を入手し、裏手にある家電屋へと足を運んだ。
 色褪せたポスターと黄ばんだセロテープの痕が目立つ引き戸を開けた途端、吹き出す冷気に瞠目する。個人経営の小さな店だからと舐めていたが、さすが家電屋というだけあって冷房機器は惜しみなく稼働していた。垂れ下がる青いテープをちらちらと揺らし、並んだクーラーは競い合うように冷風を吹かせ続ける。
 腰の曲がった店主と相談を始めた三日月から離れ、同田貫はあちらこちらと見渡しながら店内を練り歩いた。
 特別面白いものはなかったが、涼めるだけ有難い。
 体を湿らす汗はあっという間に引いて、むしろ少し寒いと感じるくらいだ。壊れかけの扇風機にすっかり体が馴染んでしまったのだろう。鳥肌の立った腕をこする。
 
 やがて店内を一通り見て周り、どうしたものかとふらつかせた視線の先で、ふと目に留まったのは中学生らしき少年少女の姿だ。
 部活帰りだろうか。窓ガラスの向こう、揃いのジャージを風に揺らし、アイスを手に仲睦まじく歩いている。片方が警戒するように辺りを窺っていることを疑問に思ったそのとき、楽しげな表情で喋る少女の唇を、少年が奪った。丸い瞳を驚愕に見開いたのも束の間、少女は照れ隠しとばかりに噴出する。
 二人の顔が赤いのはなにも暑さのせいだけではないのだろう。まるで青春映画のワンシーンのようだ。

「どちらも愛らしいな」
 一体いつからそこにいたのだろうか、背後から現れた三日月は頬を綻ばせ、窓の向こうで繰り広げられる光景を見つめている。
「正国は彼女はいないと言っていたな。作りたいとは思わんのか」
「……そんなもん、別に欲しかねぇよ」
 同田貫はぼそぼそと呟いて、初々しいカップルが視界に映らぬよう顔を逸らす。
 彼女だとか、そういう存在は自分に必要ない。か弱い存在を壊してしまうのも恐ろしかったし、異常性を秘めた夢に悩まされる男と付き合おうなんて物好きはそういないだろう。たとえ悪夢から解放されたとしても、しばらく女性と関わろうとは思わない。せめてこの手から、人の肉を断つ感触が消えるまでは。

「そうかそうか。ところでな、扇風機ではなくあれを買うことにしたんだ」
 あれ、と高機能を謳ったクーラーを指差し、三日月は同田貫の手を取った。先程とは打って変わってひんやりとした指先に肌が粟立ち、節くれだった硬い感触に安堵する。
 恋人同士ともあればこうして触れ合うことも日常茶飯事だろうが、相手が三日月なら恐怖心を抱くことはないだろう。三日月は同田貫よりずっとしっかりとした男だったし、自立した大人でもある。同田貫が簡単に壊してしまえるほど弱い人間でもなかった。なにより三日月の隣は心地よい。
 三日月なら、三日月となら――そこまで思考を巡らせたところで、同田貫は我に返る。
 なにを、考えているのだろう。
 同田貫の手を引くその指先に、重なる肌に、抱くべきではない感情だ。嫌悪しろとまでは言わずとも、同性と触れ合うことに喜びや安らぎを見出すなんて、ましてその先を思い描くなんて、そんなのは。

「明日の夕方までには取り付け工事をしてくれるらしい。朝のうちに買出しに行くか、正国や」
「……おう、そうだな」
 相槌を打つ同田貫は心ここにあらずで、それでも胸中を気取られぬよう、絡んだ手をごく自然にほどいた。眼前に立つ三日月の姿から、まぶたの裏にこびりついた三日月の姿から、そっと目を逸らす。
 全部夏のせいにして逃げてしまえたらいいのに、と思う。
 これ以上、おかしくなりたくなかった。