5

 寝苦しい夜に見る悪夢は、目に見えるすべてをより鮮明にした。
 膜が張ったみたいに、どこかあやふやだった物体のパーツ一つ一つが、くっきりと見て取れるのだからたまらない。夢と現実の境目で、振り子のように意識が揺れ、興奮と嘔吐感が交互に押し寄せる。
 けれど今日は少しだけ、眠りの淵から引き戻されるのが早かった。
「正国、正国――目が覚めたか」
「っお、ご、ぇ……っう゛ぅ、う」
 愁眉を開く三日月に何を返すでもなく、同田貫は跳ね起き、嘔吐いた。だらだらとこぼれるのは涎と胃液ばかりだったが、胸に渦巻く吐き気は次第に収まっていく。身につけた浴衣が借り物だということも忘れ、袖で何度も口元をぬぐった。
 濡れそぼった背中を撫ぜる三日月のてのひらが熱い。きっと汗をかきすぎたのだろう、やけに喉が渇く。口内に広がるねばつく酸味を濯ぎおとして、一刻もはやく喉を潤したかった。

 三日月に声をかけて台所に、と思った矢先、下肢に走る違和感に息を詰める。前屈みに下着の中へ手を忍ばせると、そこは硬く芯を持ったままで、射精した痕跡はない。きっと目覚めるのがいつもと比べ随分と早かったのが原因だろう、達するまでは行かなかったのだ。
 自分の手で処理しなければならないくらいなら、いっそあともう少し悪夢に魘されていたほうが良かったのかもしれない。憂鬱に唇を噛み締め、立ち上がろうとした同田貫を、三日月が引き止める。
「どこに行くつもりだ」
「……んなこと、俺に言わせんなよ」
 張った下肢を一瞥する気配に、同田貫は顔を伏せる。ひどく惨めな気分だ。三日月とて、悪夢につきまとうこの症状については理解しているのだろうが、いざ勃起しているところを見られるとなると話は別だった。
 いたたまれず、肩にかかった手を振り払おうとするも、三日月はより強く力を込める。

「いまの状態の正国を一人には出来ん。ようやく、その傷も癒えてきたところだろう」
 三日月の抱く懸念を、一笑に付すというわけにも行かない。同田貫には前科があるのだから、どれだけ大丈夫だと言い含めても三日月は納得しないだろう。同田貫自身、今は暴走しないと言いきれるだけの自制心は持ち合わせていなかった。ただ、体に滞る名残を払拭したい。その意識だけが先行している。
 じくじくと疼く下肢を視界に入れぬよう目を瞑っても、熱が散っていく気配はなかった。これさえ吐き出してしまえば終わる。覚めない夢に囚われているようなこの気味の悪い感覚から、一時的とはいえ脱せるのだ。

 思うが早いか、同田貫は腰に絡まる帯に手をかけた。三日月がなにかを察したように息を飲む。
「頼むから、せめてうしろ向いて耳塞いでてくれ」
 投げやりに告げると、気配がわずかに遠ざかった。
 深く呼吸を繰り返し、ずりおろした下着の奥から顔を出した屹立に指を這わせる。蒸れたにおいが鼻をついて、襖の向こうで待っていてもらえば良かった、と後悔が過ぎるが、もう声を発する気にはなれない。
「っ、ん」
 こぼれる吐息を噛み殺し、そろそろと指を動かす。
 ゆるく作った輪が上下するたびに、性器が震え硬く張り詰めていくのが分かった。反った裏筋をこすり、湿った指の腹で亀頭をやわらかく撫ぜる。機械的に手を動かしていくうちに、少しずつ息は乱れていくが、目の前が爆ぜるような強い快感はなかなか生まれない。三日月の存在が気にかかり、集中できないのだ。
 気持ちが急けば急くほどに、背後の気配に意識が向かう。性器を弄んでいるときの、ねばついた水音だってきっと三日月の耳には届いているだろう。どんな言い訳をしたって、他者からすればこれは単なる手淫だ。込み上げる羞恥に頬が火照って、自らを追い上げる手がたどたどしくぶれる。

 硬く目を瞑り、早く、早く、とそればかり繰り返し手を動かしていると、性器を扱く指に何かが触れて「っひ、ぃ」と声がひっくり返った。視界に飛び込んできたのは細長い指が同田貫のそれに重なっている光景で、背後から腕を伸ばしているのは三日月だ。
 困惑を滲ませる同田貫の一回りちいさな手を包んで、三日月は射精を促すように先走りの滲む鈴口をなぞる。三日月に弄られているのだと理解した途端に、性器がぐっと硬度を増した。同田貫の目元に朱が走り、ひどく情けないような、やるせないような気持ちが胸に渦巻いた。

「やめ、やめろよ、いやだ」
「早々に終わらせてしまったほうが楽だろう。目を瞑っていればすぐだ」
「い、ぅ……っじ、ぶんでするから、ひ」
 耳元を掠めていく淡々とした声音に、ぞくぞくと肌が粟立つ。嫌悪の類から来るものではない。三日月の声に、三日月の手に触れられている事実に、たしかな興奮を覚えている。
「っ……はぁ、あ、ぐ」
 食いしばった歯の隙間から、押さえきれない声が漏れ出す。
 括れをこする指はたしかに同田貫自身のものなのに、三日月が好き勝手に動かすせいでまるで他人のもののように思えた。同田貫を背後から抱き込んだ三日月の、重ねた方とは逆の手が性器の根元を這う。陰嚢を揉みしだく細い指にかぶりを振ると、宥めるように耳たぶを食まれて息を詰めた。

「いや、だ。ただでさえ、っおかしいのに、ぅあ゛、おれ」
 これ以上、異常性を重ねてしまったらどうなるのだろうと、下肢に纏わりつく湿った熱に浮かされながら思う。
 悪夢だけでとっくに許容量は超えていた。三日月に対して覚えた淡い感情は、きっと普通じゃない。こうして欲情することなんてもっと普通じゃないのだ。追い詰めるような真似をしないでくれと、懇願する声が震える。

「――たとえ本当におかしくなってしまったとしても、俺は正国を見捨てたりはせんさ」
 泣きじゃくる子供に言い聞かせるようなやわらかい声で、三日月が囁いた。
 たちまち押し寄せてきた感情を、同田貫はどう表現すべきか分からない。ただ、これまで与えられてきたどんな言葉とも比べ物にはならないほど、それは同田貫を安堵させる。
 背中にぴたりとくっついた三日月の体温は高かった。触れあった箇所からとめどなく汗が滲み出し、そのまま溶け出してしまいそうだ。

「ひ、っ」
 三日月の指が濡れそぼる性器を強くこすりあげた瞬間、同田貫は喉を反らし果てた。
 全身を包む倦怠感も、濃い汗のにおいも、不快で仕方がないはずのすべてが、わずかにその色を潜めた。






 網戸をすり抜け吹き込む風が、重く伏せたまぶたを撫ぜる。乱れた前髪が額をくすぐるのが鬱陶しくて、同田貫はむっすりと寝返りを打った。
 い草の枕からは青いにおいが、手繰り寄せたタオルケットからは爽やかな檸檬の香りが、ふわりと漂い鼻先を掠めていく。汗ばんだ背中を乾かすぬるい風が心地いい。じわじわと響き始めるアブラゼミの叫び声が、夏の朝を報せていた。

 何気なく、隣り合わせに敷かれた布団に手を伸ばすが、どれだけ彷徨わせても障害物にぶつかる気配はない。絡んだ睫毛をぱりぱりと引き剥がし目を開くと、やはりそこはもぬけの空だ。腫れぼったい目元を擦る。どこへ行ったのだろう。散歩か、それとも取り付け業者とやらが早々にやってきたのだろうか。
 潰れた布団に痕跡を探すが、そこには体温のかけらも残っていなかった。ひどく落胆しながら目を瞑り、まどろみに沈みかけたそのときだ。襖が開き、足音が畳を踏みしめる。
 あ、と思わず発しかけた声を飲み込んで、薄くまぶたを持ち上げ様子を窺った。高く伸びるぼやけた影が立ち止まり、同田貫の顔を覗き込むように膝をつく。
「正国、正国や」
 まろやかな声が同田貫の名を呼ぶ。わざとらしく唇をむずつかせて寝たふりをする同田貫の頬に、筋張った指がそっと触れ、やがて離れていった。ふたたび襖の向こうに消えていく気配に、溜め息をこぼす。

 少しだけ、顔を合わせるのが気恥ずかしい。
 昨夜の出来事など、三日月にとっては歯牙にもかけない他愛のないものだろう。同田貫が拠り所を見つけたような気持ちでいることも、三日月は知る由もない。
 寝起きの気だるさにしばらく浸ったあと、同田貫はその上体を起こしぐっと伸びをする。
 悪夢を見たとは思えないほど、清々しい気分だった。今朝は買い物に行くと言っていたから、そろそろ着替えて顔を洗ったほうがいい。行儀悪く四つんばいで襖に近付き、開こうとしたところでふと、三日月の声が耳に止まる。

「――鶴丸か、珍しく早いな」
 三日月の漏らしたその名には覚えがあった。仕事の連絡かなにかだろうか。
 電話をしていると思しき三日月の声は、とりとめもない世間話から小難しい内容まで、転々と行き来しながら続いた。すっかり出るタイミングを見失ってしまい、同田貫はむず痒い目元をこすって襖にもたれる。どうせなら二度寝に興じようか、と思い至った同田貫の耳に、気になる言葉が届く。
「悪夢を忘れられる薬か、そんなものがあったら正国は真っ先に飛びつくだろうなあ」
 からからと笑っているところを聴くと、二人のなんでもない冗談なのだろう。悪趣味な会話をするものだと顔を顰める。
 相槌を交えながら、途切れがちに会話は響き、やがて三日月はその声をわずかに低めた。くぐもっていて上手く聞き取れないが、耳を欹て拾い上げた言葉の一つに、同田貫は身を強張らせた。

「正国からあの悪夢を取り払ったら、何も残らん」
 ひどく乾いた音が鼓膜を叩く。
 冷たく突き放すような物言いに戸惑う同田貫を尻目に、いくつも声は重なっていった。

 通話を終える気配と、こちらへ近付いてくる足音を感じたとき、ふたたびタオルケットにくるまり固く目を瞑ることを選んだのは、真意を問いただす勇気がなかったからだ。
「正国、朝だぞ」
 いつもと変わらぬ穏やかな声が、今は恐ろしくて目を開けない。