三日月の元で生活を始めてしばらく経ち、分かったことがいくつかある。
まず、この家には毎日新聞が五部届く。この町の新聞社に夕刊という概念は存在しないので、朝刊だけで五部だ。
木製のポストに無理矢理捻じ込まれた新聞たちを同田貫が回収し、居間のテーブルに置いておくのが習慣のようになっていたが、三日月はそのうち特に名の知れた新聞社のものしか読まない。残り四部はろくに開かれることなく、部屋の隅に無造作に積まれて終わりだ。
何故その一部きりしか目を通さないのか、と尋ねると、三日月曰く「この一部に必要な情報はすべて載っているからな」とのことだった。返答としては不十分だが、訪問販売員の口車に乗せられて不用品を購入する姿を既に二度目撃していたので、大体察しはつく。
次に、三日月は家事能力があまりにも低い。
初めてこの家を訪ねたあの日、雑然とした室内を見た時点でなんとなく勘付いてはいたものの、二週に一度やってくる代行業者がいなければ生活がままならないほどとは予想外だった。
特に料理はからっきしなようで、試しに米を炊かせてみたところ見事な粥になった。同田貫とて調理実習で培ったスキル程度しか持ち合わせてはいないが、米を炊いて卵を焼くくらいなら出来るし、油を引いて野菜を炒めることだって出来る。そう主張したことをきっかけに、同田貫は今日の昼食作りを任される運びとなったのだ。
「うむ、美味い。正国は良い主夫になれるな」
そして、無事完成したナスとトマトの炒め物を口にした三日月の第一声がそれだ。
なんと返すべきか図りかねた同田貫は、呆れた目線だけを送ってトマトを頬張る。素材の味、と言えば聞こえはいいだろうか。味付けは塩コショウのみのため、随分とやさしい味だが食べられない訳じゃない。しかし白米との相性の悪さで評価はマイナスだ。それを気にする素振りもなく、ぺろりと平らげた三日月はよほど腹を空かせていたか、もしくは冷麦ばかり食べていて舌が馬鹿になったのだろう。
とは言え、同田貫とて褒められて悪い気はしない。唇をむずつかせながら、口いっぱいに詰め込んだナスを麦茶で流し込む。
「ああ、皿洗いくらいは俺がしよう」
「いいっての、あんたは座ってろよ。世話になってんだし、雑用くらいはしねぇと」
制す声をかわし、汚れた食器を重ねる同田貫だが、しかし三日月はそれを奪うようにして取り上げた。
「その手では洗剤が沁みてしまうだろう」
転がった箸を捕まえ、「洗い物は得意だからな、任せておけ」と嘯く三日月の双眸に映る同田貫は、さぞ強張った表情していることだろう。台所へと向かった三日月を無言で見送り、うっすらと汗の滲んだ手のひらを握り締める。まっさらな包帯の巻かれたそこが、同田貫を責めるように痛んだのは、決して思い過ごしなどではなかった。
まさしく醜態と呼ぶべき風呂場での一件から、かれこれ一週間が経とうとしている。手のひらに広がる傷はそれほど深いものではなかった。ただ、利き手であることが拙かったのだと思う。なにせ体の中でもっとも多用する部位だ。傷口を晒し乾燥をうながすことは困難で、未だ生々しく爛れた傷は、ふとした瞬間に鈍痛を走らせては悪夢を蘇らせる。瘡蓋となって癒えるまでの間、激しいフラッシュバックが続くのだと思うと憂鬱で仕方がなかった。
悪夢はあれから更に一度、同田貫を襲ってきた。執拗に心を蝕む機微はより鮮明になり、夢と呼ぶのが躊躇われるほどリアルな感覚も同様だった。三日月が押し留めてくれなければ、ふたたび自傷に走り、傷を上塗りする結果となっていたかもしれない。粟立った肌をさすり、グラスの縁を噛む。
三日月がことの次第を尋ねてきたのは、同田貫が落ち着きを取り戻した直後だったろうか。唇を迷わせている間に、夜空に散らばる星はコバルトブルーに飲まれていったが、三日月は急かすでもなく、ただ同田貫の声を待った。結局、口を開いたのはそれから随分経ってからだ。
同田貫にとって、夢の中で浮き彫りになった感情の変移を言葉にするのは容易ではなかった。同じ状況において、誰しもが自傷に走るほどの衝撃を抱くかと言われれば必ずしもそうではないだろう。
夢は夢であると、きっと大多数は割り切って生きている。同田貫がその大多数の枠へ踏み込めずにいる理由なんて、医者ですら『気にしすぎ』の一言で片付けてしまうのだ。自分はどれだけ言葉を尽くしても理解されない感覚に溺れているのだと、同田貫は気付いていた。
そんな諦めにも似た気持ちがあったからだろう。もしかしたら、と前置きをした上で告げられた「環境が変わったばかりで心が動揺しているのかもしれない」という意見に、同田貫がひどく安堵したのは。
ヒステリックに話を遮る声や、マニュアルに則った事務的な返答を繰り返す声に慣れた心は、真摯な言葉に飢えていたのだと思う。同田貫の抱く恐怖や焦燥を否定せず、受け入れてくれる三日月のような存在は稀だったのだ。
物思いに耽りながら、皿洗いに精を出す三日月の背中をなんとはなしに眺め、時間を持て余す。
やけに強くただようオレンジの香りは食器用洗剤のそれだ。きっとまた加減も知らずスポンジに滴らせたのだろう、数日前の惨事が頭に過ぎり、やはり任せるべきではなかったかもしれないと後悔が込み上げる。
傷がふさがっていないとは言え、調理中はビニール手袋できちんと保護していたし、同じように対策をすれば洗い物にだって支障はない。同田貫の邪魔をするように台所をうろついていた三日月がそれを知らないはずもなかったが、爪先を使ったぎこちない動作はよほど危なっかしく見えたのだろうか。細事には疎くとも、三日月は人並みに気を回せる男だ。ただ、その心配りをオブラートに包むという概念は持ち合わせていないようだが。
空のグラスを満たすという名目で、様子を窺いにいこうと思い立った矢先、壁にぶら下がったカレンダーがふと目に留まる。
「なあ、これめくっていいか?」
同田貫の声に振り向いた三日月が、泡まみれの手を軽く振った。床をめがけて飛散した泡を拭き取るのは、きっと同田貫の仕事だろう。おそらく三日月は汚れた床など眼中にないのだろうから。
嘆息と共に伸ばした指が、過ぎた時間を破り去る。背比べをする向日葵の傍らに大きく記された八月の文字がまぶしくて、同田貫は思わず目を眇めた。
◇
庭先にあるヤマモモの木から実が落ち、地面を赤黒く汚していることに最初に気付いたのは同田貫だった。
「たしかジャムにすると美味いと聞いた気がするな」
腰を屈めた三日月に倣い、同田貫もまた、潰れた実をひとつ拾い上げる。熟しきった実からは赤い汁が滲み、砂糖のような砂粒がたっぷりと纏わりついていた。手早く収穫していれば無駄にはならなかっただろうに、と少しだけ残念に思う。
自宅の庭に生っているにも関わらず、どうやら三日月はヤマモモを食した経験がないようだった。同田貫はと言えば、甘酸っぱく美味だと耳にした記憶がある程度だ。好奇心に駆られ、芳香のないその実をもいで齧ってみれば、途端に広がる強い酸味にたちまち噎せ返る。傍らで笑いを堪える三日月の唇に実を押し込むと、途端に眉を顰めるのだからいい気味だ。
「ざまぁみろ」
したり顔で顎を反らす同田貫に苦笑を忍ばせ、三日月はまるで子供にそうするように硬い黒髪を撫ぜる。
同田貫の頭をわしわしと掻き混ぜるのは三日月の癖だった。なまじ同田貫の背が低いだけに、一見すると本当に親と子のそれに見えてしまうのではと不服に思う。そもそも高校生など、三日月からすれば子供以外の何者でもないのかもしれないが、気に入らないものは気に入らない。
それでもいくらもせず離れていく手を名残惜しく感じるのは、三日月の細い指がひんやりとして気持ちいいから、ということにしておこう。
ぬすみ食いを目論むカラスが枝木に止まったかと思うと、揶揄っぽい声をあげ同田貫を見下ろすのが癪だ。見透かしたような顔をするな、と睨みつける同田貫の足元に黒い羽を落として、ふたたび飛び立ったカラスの嘴にはしっかりと赤い実が咥えられていた。
「どれ、今日はこの実を収穫して、家でのんびりすることにしよう。ジャムと……それに果実酒でもこしらえるか」
「……先に言っとくけどさぁ、俺はジャムの作り方なんて知らねぇぞ」
どうせあんたも知らないんだろうと問い詰めるより早く、三日月の手が幹を揺する。やわらかく熟れた実たちが雨のように降り注ぐ様に、慌ててTシャツの裾をひっぱれば、受け皿となったそこに大量のヤマモモが積み上がった。とは言え無事に助けられたのはほんの一部だ。嘆息する同田貫の剥き出しになった臍を、ぬるい風が触る。
「はっはっはっ、腹が冷えるぞ」
「あのなぁ、誰のせいだと思ってんだ……ったく、勿体ねぇことしやがって」
「落ちたばかりのものは洗えば食えるだろう。籠かなにかを持ってくる、正国はそこで待っているといい」
そう言って玄関奥へと消えていく三日月はどこまでマイペースなのだろう。呆れ顔で見送り、同田貫は手持ち無沙汰に視線を彷徨わせた。
今日も今日とて気温が高く、なにをするでもなく汗が滲み出すような、蒸した空気が辺りに漂っている。ぎらつく太陽がその日差しを弱める気配はまるで感じられないが、同田貫の立つ場所は広がる枝木が傘となっている分、いくらかマシだ。生い茂る葉のすきまを縫って差し込む光は、くさび形の影をいくつも落とす。時折、思い出したように降ってくる実が、懸命に働く蟻の行列を乱して転がっていくのが可笑しかった。
自然にあふれた長閑なこの町での生活に、同田貫はすっかり馴染んでいた。
テレビがこぞって占いを垂れ流しはじめる頃に起きて、じわりと夏色に染まっていく空を眺めながら欠伸をこぼす。まだ涼しいうちに課題を済ませたら、あとは三日月と共に安閑とした一日を過ごすばかりだ。
取っ手の欠けたバケツとリールのない竿を手に、慣れぬ川釣りに励む日もあれば、家に引きこもり団扇をはためかせるだけの日もある。
三日月はその職業柄、話を引き出し誘導することに長けていたから、もっぱら同田貫が喋り通して一日を終えることも多かった。語る内容と言えばとりとめもない思い出話ばかりで、それほど愉快なものでもないのだと思う。けれど、話に聞き入る三日月の朗らかな表情はそれを感じさせず、同田貫を饒舌にさせるのだ。
勝手の違いに不便を感じることもあったが、磨り減った心をやわらかく癒し、安らぎを与えてくれる穏やかな空気を思えば苦ではない。
この町に、三日月の元に来て良かったと、同田貫は日々実感しながら目の前に広がる夏を満喫している。ときに悪夢をも忘れさせる、開放感に満ちた生活がここにはあったのだ。
「クワガタ……」
三日月を待ちぼうけ、ぼんやりと仰いだ木の幹に黒い影を発見し、幼少の記憶が蘇る。
まだ十歳にも満たない頃、母にねだってオオクワガタを飼ったことがあった。野生ではなく、デパートに値札つきで並べられた養殖ものではあったが、散々頼み倒してようやく飼育を許されたのだ。名はなんと言ったか、子は産んだだろうか。はっきりとは思い出せなかった。ふつふつと童心が蘇る。
同田貫には少しばかり高い位置に止まっているものの、手を伸ばせばなんとか捕まえられるかもしれない。
思い立ったが早いか、同田貫の腕は影を目掛けまっすぐに幹を這った。空いた手で掴んだシャツの裾から、ヤマモモが僅かにこぼれ落ちる。ぐっと反らした足裏が攣りそうだ。あと少し、あともう少しで手が届く。
――しかし光沢を放つ羽につま先が掠めた途端、影は弾かれるように飛び立った。思わず小さく声を漏らす同田貫の元から、あっという間に逃げ出した影を追いかけ宙を見上げる。
「正国、待たせたな」
「ん、ああ……」
近付いてくる三日月の声に空返事をして、同田貫は素早く遠ざかっていく影を見失うまいと地面を蹴る。ところが、潰れたヤマモモの群れに足を取られたのだろう、サンダルの底を濡れた感触が撫でた次の瞬間、体が勢いよくつんのめった。
ああ、まずい。迫る地面に強い衝撃を覚悟したとき、三日月の手が同田貫の肩を掴んだ。だが重力には抗えず、三日月の体は同田貫を抱き竦めたまま後方へ叩きつけられる。下敷きとなった三日月の口から漏れる呻き声に、同田貫は血相を変えすかさず飛び起きた。
「っわりぃ! 怪我は――」
怪我はないか。そう言いかけて、同田貫は目の前に広がる光景に息を飲んだ。
見下ろした三日月の腹部が、不自然に赤く染まっている。紺色の帯に染みた赤は暗く濁り、一瞬、同田貫は呼吸を忘れた。擦り切れるほど再生してきた悪夢が脳裏に過ぎる。腹から血をこぼす男が、同田貫の殺したあの男が、恨めしげにこちらを睨む空洞の眼窩が。
身じろぐ三日月の体を押さえつけなければと思う。動くということは息があるということだ。まだ死んでいない。まだ、殺せる。何故拳の中は空っぽなのだろう。刀を手にし今すぐ仕留めなければならない。殺さなくちゃならない。だって、それが同田貫の――。
「怪我はないが……これはひどいな。すべて潰れてしまったか」
侵食を始めた悪夢を溶かしたのは、三日月の発した声だった。
ちかちかと点滅を繰り返す視界が、眉を寄せる三日月と、その腹部で潰れた赤い実の群れを映す。おびただしく広がる赤い染みは、よくよく見れば同田貫自身のTシャツにもべっとりと付着していた。これはヤマモモの実だ。自らが抱えていたそれが倒れた衝撃で潰れてしまったのだと気付くのに、それほど時間は要さない。頭はたちまち冷えていき、同田貫は深い溜め息と共にその場に膝を突いた。身なりを整える三日月を横目に、同田貫は額にびっしりと浮かんだ汗をぬぐう。
重い心音が体を駆け巡り、動揺もあらわに脱力する同田貫を囃し立てた。気持ちを落ち着けようとするたびに、包帯で覆われた手のひらをむず痒い痛みが走り抜ける。何故だろうか。安穏とした生活は許されないとばかりに、痛みが強まっていくのは。
「まあいい、潰れた分だけもう一度木から採ろう。そら、立てるか?」
俯く同田貫の眼前に、尖った爪先が突き出される。
見上げた三日月の穏やかな表情に安堵し、強張る体を叱咤しその手を掴んでも尚、噴き出す汗は止まらなかった。
和やかで開放的な生活に順応していくにつれ、忍び寄る影が大きくなっている気がした。同田貫はこの場所で、たしかに満ち足りた毎日を過ごしている。だから余計に恐ろしいのだ。逃れがたい悪夢に侵される瞬間が、昏い夜が訪れるのが。
収穫したヤマモモは、なんのまぐれか見事甘酸っぱいジャムへと変貌した。とろみのある赤いそれは美味だったが、いくらもせずに吐いた。便器の奥に渦巻き消えていく色が、生々しい。