同田貫を乗せたバスが走る。
窓の外に田んぼや畑しかないのも、広がる景色にまるで変化が見られないのも、嫌味なほど空が青いのも、一週間前この場所を訪ねたときとまったく同じだ。
唯一違うことと言えば、同田貫の傍らに母の姿がないということだろうか。
昨日、終業式を終えたその足で帰宅した同田貫は、着替えもそこそこに旅支度を整えた。数日おきにローテーション出来るだけの衣類に、歯ブラシなどの生活用品、山のように出された夏休みの課題を詰め、ぎちぎちになったリュックを閉める。
財布を片手に現れた母が、これくらい持っていれば大丈夫かしら、と不安げに一万円札を数枚差し出したから、有難く頂いておいた。
母はいつまでも同田貫の部屋の前をうろうろしていて、まるで初めて一人きりで遊びに出かける小学生を相手にするみたいに、何度も何度も「本当に大丈夫なの」と尋ねてきた。怒鳴ったり泣いたり、もうずっとそんな姿しか見る機会がなかったが、本来彼女はごく普通の母親なのだ。少し心が脆いだけで、決して悪い人ではない。
しばらく離れることとなる最後の夜に、昔のような表情を見られて良かった。たった半年と一月ほど前の日常を『昔』と例えざるを得ないのは、その短い期間で二人の関係は随分様変わりしてしまったということだろう。
この合宿を終えたあと、ふたたび自宅へ戻ったそのとき、今より穏やかな日常が待っていればいい。これから始まる生活へ期待を寄せながら、同田貫はゆるい坂を越えて呼び出しブザーに指をかける。はじまりの音は低く不明瞭だったけれど、今はこれくらいでちょうどいい。
「ああ、よく来たな。上がれ」
「……っす。あー……しばらく、世話んなります」
間を置かず顔を出した三日月は、以前よりもやわらかな笑みで同田貫を迎えた。相変わらず涼しげな浴衣姿だ。軒先でぎこちなく頭を下げる同田貫を、「はっはっはっ、正国は敬語が似合わんなあ」と笑い飛ばすと、三日月はその右手を差し出す。
「敬語などいらん、楽に話せ。こちらこそ、よろしく頼む」
ためらいがちに握り返した手は、細く筋張っていた。もしや草野球でもしているのだろうか、手のひらはところどころ豆が潰れたように厚く硬い。随分似合わないな、とぼんやり思いながら、同田貫は汗で湿った手に伝わってくる力強い鼓動を感じていた。
「正国の場合は症状が症状だ。寝室だけは俺と同じ部屋になるが、構わんか」
私室として自由に使え、と案内された部屋に荷物を下ろすなり、三日月は何食わぬ顔でのたまった。面食らいはしたものの、夢の話を持ち出されると素直に受け入れるほかない。元々ここへ来た理由は症状の改善のためだ。カウンセラーは医者と異なると知ってはいるが、専門家が付き添っていれば悪夢の原因も何かしら分かるのかもしれない。ただ、一つだけ気になることがある。
「他のやつらも同じ部屋で寝んのか?」
浮かび上がった疑問を口にすると、三日月は瞳を瞬かせた。
「他のやつら、とは? ここで生活するのは正国と、それから俺だけだぞ」
「……はぁ? いや、だってあんた、こないだ『今年も希望者が既に二人いる』って言ってたじゃねぇか」
「あれか。あれはな、先方からやはり考え直すと連絡があったんだ」
けろりと言い放たれ、なんだか裏切られたような気分だ。てっきり同じような悩みを抱えた子供がやってくるのだと信じていただけに、同田貫の衝撃は計り知れない。はたして参加者が一人きりの合宿を合宿と呼んでいいものだろうか。単なるお泊りではないか。様々な言葉が頭に浮かんでは消える。
「まあなんだ、下手に大勢と関わるよりは、伸び伸びと過ごせていいだろう」
たしかに、三日月の言葉も一理ある。別に何が悪いという訳ではないのだ。ただ、なんとなく調子を狂わされた気がするだけで。
どこか釈然としないものを感じる同田貫だったが、三日月の「西瓜が冷やしてあるぞ」という一言に軽々しく流されてしまうのだから実に単純だ。口にたっぷりと含んだ種を吐き出しながら嘆き、同田貫はよく冷えた赤い果肉を頬張った。縁側の柱にへばりついた蝉が恨めしげに鳴いている。皮を置いておけば、カブトムシが寄ってくるだろうか。
腹の中が水っぽくなった頃、三日月は「近くの川まで散歩でもどうだ」と同田貫を誘ってきた。
蝉のやかましさに比例するように、照りつける日差しは凶悪だ。正直に言えば外に出たくない。けれど三日月は仮にも家主であり、同田貫はこの家でしばし居候の身だ。初日から無下に突っぱねるのもいかがなものか、と、すり込まれた概念が訴える。
「通り道に氷屋があったな。途中でかき氷でも買っていくか」
「……行く」
西瓜のおかげで随分腹は満たされているというのに、渋る気持ちも忘れてつい即答してしまうのだから成長期の食い気は恐ろしい。真っ赤に熟れた西瓜と来たら、次は夏空のように青いシロップがたっぷりかかったブルーハワイだ。たちまち乗り気になった同田貫に何を思ったのか、三日月がくつくつと喉を鳴らす。新品のサンダルを引っ掛け、一時間ぶりに見上げた空にはやはり目の覚めるような青が広がっていた。
「なんだ、こう暑いと嫌になるな」
畦道をのろのろと進みながら、三日月は額に手を翳し呟くが、言葉とは裏腹にその表情は清々しい。同田貫など早くも外に出たことを後悔しているというのに、どこか楽しげに見えるのは気のせいだろうか。
「俺がここにいる間、仕事ってどうするんだ?」
特に話すこともなくて、同田貫は何気なく浮かんだ疑問を口にする。
どのくらいの頻度でカウンセリング希望者が訪ねてくるものなのかは分からないが、同田貫のような部外者がいてもいいものなのか不思議に思ったのだ。三日月の自宅はたしかに広く、部屋数も多かったが、如何せん造りが古かった。風通しをよくするためか、襖がいくらか取り払われているお陰で音の通りも良い。居間から二部屋ほど離れた私室にいても尚、テレビの音が聴こえてきたくらいだから、会話だって筒抜けだろう。プライバシー、守秘義務、そんな言葉が頭に過ぎる。
「子供を預かっている期間は、他の仕事は受けていない。世話で手一杯だからな」
「俺はそんな手のかかる歳じゃねぇっての……」
「鶴丸の――お前を俺の元に寄越した医者がいるだろう、あれのところに時々顔を出すくらいか」
「ふぅん」
ということは、夏休みが終わるまでの間は毎日二人きりで過ごすことになるのだろうか。
顔を合わせるのが二度目だから、というのも恐らく関係しているが、三日月と話すのは少し緊張する。見目麗しい容貌や所作に気後れしてしまうのだと思う。
それに、三日月はこれまで遭遇したことのない独特の雰囲気を持つ男だ。性格がどうというのではなくて、どことなく隔世的なのだ。現代らしさというものを感じさせない町の様子も相まって、その印象は強まるばかりだ。青々とした景色を見渡しながら、穏やかな三日月の声を聴いていると、なんだかひどく懐かしい気持ちが込み上げるのは何故だろう。幼い頃亡くなった祖父もこんな田舎で暮らしていたから、その頃の記憶と重なるのだろうか。
二人は途切れがちに言葉を交わしながら、砂利の散らかる悪路を進み続けた。
半袖のシャツにハーフパンツという出で立ちの同田貫がこれだけ汗だくになっているのに、薄手とはいえ足首まで隠れた浴衣姿の三日月が余裕の表情を見せているのは解せない。そんなに涼しいのなら一度試してみたいものだが、浴衣というのは随分動きづらそうだ。湿った襟ぐりをぱたぱたと動かし、ぬるい風を取り込みつつ考える。
横道に逸れてすぐ、三日月の言う氷屋が見えてきたのは幸運だった。精々十五分ほどしか歩いてはいないはずだが、同田貫の喉は激しい渇きを訴えている。
しかしお目当てのブルーハワイは取り扱っていない様子で、仕方なくレモンを選んだ。これもまあ、見るからに爽やかな色合いで嫌いじゃない。鮮やかな二色のラインが目を惹くスプーンで山を崩し、レモンシロップ味の氷を頬張る。舌の上であっという間に溶けていくひんやりとした甘さに、死んだ体が生き返るようだ。
「正国、一口くれんか」
無心に口を動かす同田貫を見つめていた三日月が、何食わぬ顔でねだる。
「なんだよ、自分は良いとか言ってたくせに。やっぱあんたも買えばよかったじゃねぇか」
「一つはな、ちと多いだろう。食べきれずに捨てるのも忍びないしなあ」
そう言って自らの唇を指すのは、同田貫の手で食べさせろということなのだろう。端から見ると寒い光景だろうが、幸いというべきか辺りに人の姿は見当たらない。
「ん」
渋々、たっぷりのかき氷をのせたスプーンを三日月の口元へ差し出すと、その双眸は満足げに弧を描いた。
三日月は同田貫より頭一つ分背が高いので、必然的に見上げる形になる。端正な顔立ちが迫り、唇が氷を食んだ瞬間にぞくりと肌が粟立ったのは、深い藍色の瞳に沈んだ金の月が光ったからだ。間近で見るまで気がつかなかったが、三日月の瞳は驚くほど神秘的な色を持っている。同田貫もまた、日本人離れした色を持っていたが、三日月のそれは自分の比ではない。見ているだけで吸い込まれそうな夜空の瞳だ。
どれだけ整った顔立ちをしていても、至近距離でまじまじと見れば何かしら欠点が見つかるものだが、どうも三日月はその法則に当てはまらないらしい。
「……あんたってさぁ、そのツラ生かしてどうこうしようとは思わねぇのか」
「はて、なんのことだ」
三日月は首を傾げてみせるが、よもや秀でた容姿を自覚していないなんてことはないだろう。これだけの美貌を持ちながら、何故カウンセラーという仕事を選んだのか不思議だ。人前で黙って座っているだけでも金になりそうなものだが。
何もない田舎で一月あまりを過ごすことに多少の不安はあったが、この掴みどころのない三日月という男といれば、しばらくは退屈と無縁な生活が送れるような気がする。あとはこの茹だるような暑さが僅かにでも引いてくれればいいのだが、生憎、夏はまだ始まったばかりだ。
溶けはじめた氷を吸い上げる同田貫の視界に、せせらぐ小川がようやく映り込む。サンダルを踏みしめる足が、涼やかな水面を求めそのスピードを速めた。
「正国は小柄だがいい体をしているなあ」
風呂上がりの同田貫を前に、三日月は開口一番そう言った。
二人が散歩を終えて帰宅した頃には辺りはすっかり暗くなっており、促されるまま汗だくの体を流したのがつい先程のことだ。借り受けた浴衣をだらしなく羽織り、扇風機からそよぐ風を無心に浴びていた同田貫を、三日月は感心した様子で見つめている。
「柔道やってたからな。中二までだけど」
そのせいで背が伸びなかった、と付け足すと、三日月は小さく喉を鳴らした。
小学一年生のときに近所の道場に通い始めたから、大体八年ほど習っていたことになるだろうか。大会にもたびたび参加し、それなりの成績を収めていたが、高校受験を控えた中二の春にあっさりと辞めた。体を動かすことは好きだったが、柔道に対する情熱みたいなものは特別持ち合わせてはいなかったのだ。
「なら、それも稽古中についたものか?」
それ、と三日月が指したのは、右眉の際から左頬にかけて走る一本の傷、そしてその傍らに短く並んだ傷だ。
顔の中心を跨ぐように走っているため、随分と目立つこの傷は、幼い頃誤って転んだ際に出来たものだと聞いている。曰く、転んだ場所に穴の開いたワイヤーフェンスがあったことでこうなってしまったらしい。これだけ深い傷だ、好奇の視線を向けられることは多々あるが、失明しなかっただけマシと思えばそれほど気にはならなかった。
そう説明すると、三日月はなにやら思わせぶりに表情を一変させる。考え込むような仕草を疑問に思う同田貫だが、ふいに鳴り響いた玄関ブザーの音に意識が絡め取られる。
財布を片手に玄関へと姿を消した三日月は、その手に重箱を二つ抱えて戻ってきた。蓋を開けてみれば大きな鰻の蒲焼が二枚、敷かれた米に甘いタレをたっぷりと染みこませている。いつの間にこんなものを頼んでいたのだろう、と驚愕する同田貫を他所に、腹の虫が急かすように鳴き声を上げた。
網戸の向こうはまだ明るく、時計の針は夕飯にはいささか早い時刻を指し示していたが、空腹には逆らえない。三日月が「しっかり食べて精をつけるといい」と差し出してきた割り箸を、小気味のいい音を立て二つに割る。なんだかここに来てから、同田貫は食べてばかりだ。
「明日の昼は冷麦でも茹でるか。ちょうど貰い物が山のようにある」
三日月も三日月で、夕飯も食べ終わらぬうちから次の食事の話をし始めるのだから笑ってしまう。仕舞いには明後日の夕飯にまで話は及び、流石の同田貫も呆れながら相槌を打つ。飛び交う会話はとりとめもなかったけれど、テーブルを囲む二人の間に流れる空気は和気藹々として、笑みの絶えない時間は同田貫の心をやわらかく綻ばせていった。
しかし、そんな和やかな気分をぶち壊すように、その夜同田貫の元へ悪夢は忍び寄ってきた。
夢はいつもと何ら変わりはない。振り下ろした刃が、男の腹を歪に裂いていく。
刃が肉に寄り添うように触れているとき、同田貫の頭の奥ではいつも激しい鼓動の音が響いている。同田貫はそれが興奮した自分の心臓が鳴らしているものだとばかり思っていた。だが、ふと気付いてしまった。これは自らが発しているものではない。眼前の男の体の中で痛いほど脈打つ心臓の音が刃を伝い、同田貫の元へ届いているのだ。
それを裏付けるように、男が絶命した瞬間、けたたましく鳴り響いていた音が消える。同田貫の頭の先から爪先までを流れる血は恐ろしく煮えたぎっていたが、絶命を確認すると同時にゆるやかな速度で熱が引いていくのが分かった。
興奮は止まない。けれど、斬り殺す対象が消えてしまったことに、同田貫はたしかな虚無感を抱いている。
人を殺すことにどうしようもなく心が激し、そして今は物足りなくてたまらない。次を見つけないと。この熱が冷める前に。殺す相手を。早く。早く。
「――正国」
はっと見開いた目に飛び込んできたのは見慣れた天井ではない。
三日月だ。薄闇の中、三日月が眉を顰め同田貫の様子を窺っている。
「随分、魘されていたようだが」
気遣うような表情を見せる三日月に声を返す余裕もなく、同田貫は荒い呼吸を繰り返す。
落ち着け。これは夢だ。夢なんだ。
回らない頭で自らに言い聞かせる。震える手のひらに残る感触より何より、今日はこの激しい鼓動が怖い。耳鳴りのように響くそれは、夢の中で殺した男の鼓動ではないと分かっているのに、恐怖を感じずにいられないのだ。
夢の中の自分が手にした、物理的な感覚が伝わるだけならまだ良かった。人を殺めることに興奮しているのだと、漠然とした事実を理解してしまうだけならまだ良かった。微細な心情の移ろいをここまではっきりと理解してしまったら、もうこれは『夢』じゃ済まされない。
実際に誰の命が奪われたわけじゃなくても、同田貫は人を殺している。あの男を、この手で、同田貫はたしかに殺した。殺してしまった。
「汗がひどい。なにか拭くものを――」
べったりと湿った額にかかった手を、咄嗟に振り払う。
「っさわる、な」
ガラガラとひび割れた声で拒絶を示したのは、体の中で暴れ狂う激情の名残を悟られたくなかったからだ。
黙りこくる三日月から目を逸らし、ゆっくりと上体を起こす。室内には、夏の夜らしくないひんやりとした空気が漂っていたが、同田貫の体はやけに火照っていた。汗を吸い、ぬるく湿った浴衣は袷が乱れている。三日月の言葉通り、よほど激しく魘されていたのだろう。
下着に広がる不快感に顔を顰め、「風呂借りる」と小さく呟き立ち上がった同田貫を、三日月は何も言わず見つめている。ささくれた畳を踏みしめる足に力が上手く入らず、ふらつきながら風呂場へ向かった。
脱衣所を通り抜け、浴衣も脱がずに浴室へと足を踏み入れる。そこに鎮座する大きな鏡に映った自分を見たくなかった。きっと今、同田貫は酷い顔をしているだろうから。
体に引っかかる浴衣を脱ぎ落とし、震える指を下着にかけると、濡れそぼった性器が露になる。いつもなら萎えているはずだが、今日に限って昂ぶりが収まっていない。ゆるく勃ちあがったそこにねっとりと纏わりつく精液が、下着に絡んで透明な糸をつなぐ様子に嫌悪感が込み上げた。気持ち、わるい。
「くそ……っ」
掬い上げた真水を頭の上から何度被っても、下半身に滞る熱は一向に散る気配がない。悪夢も、悪夢の名残も、すべて消してすべて忘れてふたたび眠りにつきたいだけなのに。苛立ちが加速する。
仕方なく、同田貫はそこに手を絡ませ目を瞑る。昂ぶりを自らの手で慰めるのは随分と久しぶりだった。定期的に見る悪夢のおかげで、なんて言いたくはないけれど、自主的に発散せずに済んでいるのはやはりそれがあるからだ。
指が括れを掠め、張った裏筋をこするたび、込み上げてくるのはたしかな快感だったが、同田貫はそれを認識したくなかった。屹立を扱く同田貫の頭の中にはなにも浮かんではいないけれど、勃起したそのとき目にしていたのは人を殺す光景だ。
「ん……っ、く、あ」
おかしい。こんなの、狂ってる。呪詛のように繰り返しながら、小さな声を漏らし果てる。
噛み締めた唇からじわりと血が滲み出すのと同時に、白濁した液体が指の合間を滴り落ちた。わずかに温かく、ぬるついた感触は血に似ている。夢の中で浴びた血に、この手で殺めた男がこぼした血に。
力なく下を向く性器からぱたぱたと落ちる粘液が、水に溶け、排水溝に吸い込まれていく。
精にべたつく手のひらが酷く汚いもののように思えて、すべる石鹸を捕まえ、水桶の中で必死に泡立てる。
何度も、何度も、どれだけ洗い流しても気味の悪い感触が消えなくて、気付けばがりがりと爪を立てていた。ふやけた手のひらが痛むのも構わず、繰り返し引っ掻く。
「まさ――、っ……正国、なにをしてる」
なかなか戻らない同田貫を不審に思ったのだろう、不意に背後から声が響いたかと思えば、濡れそぼる手首が強引に掴まれた。タイルの上に直接座り込んでいるせいで、体が滑り膝を水桶にぶつける。たちまち溢れ出した汚水に三日月の表情が強張り、明らかな困惑を浮かべ同田貫を見据えた。
全身に襲い掛かる脱力感に、なにもやる気が起きない。このまま、この場所で眠ってしまいたいとすら思う。
だけど一つ、三日月に伝えなければならないことがあった。
乾いた唇が、弱々しく声を紡ぐ。
「おかしいんだよ、おれ」
手のひらを覆い尽くす赤い泡が、ゆるやかにこぼれていく。