呼び起こされたばかりの刀剣男士は、右も左も分かりません。刀の扱い方だけは体に染み付いていましたが、それ以外はまるでからっきしで、周囲の者に手を貸してもらわなければ食事もままならないほどです。
人の体を得て過ごす日常は発見の連続でした。目に入る景色も、鼻腔をくすぐる季節のにおいも、なにもかもが新鮮だと皆揃って口にします。しかし与えられる職務について聞かされると、たちまち困惑に目を瞬かせるのです。
僕たちは刀でしたから、戦に駆り出されるのは当然です。本丸の運営に必要な資材を集めるため、方々に出向いて任務をこなすことにも、それほど疑問を抱く者はいません。ただ一つ、まとめて『内番』と呼ばれる職務が問題でした。
「なぁ……刀が馬の世話ってなんかの冗談か?」
蹄油を手にした二振り目の彼もまた、例に漏れず怪訝な声を発します。濡れた手拭いでお馬さんの顔を拭いてあげながら、「主さまからお願いされた立派なお仕事ですよ」と教えてあげると、彼は腑に落ちないといった表情のまま手を動かしはじめました。
僕もここにやってきた当初は同じように戸惑ったりしたなあ、と懐かしく思います。だって僕たちは刀なんです。お馬さんの世話だけでなく、畑の管理や食事の準備、ありとあらゆる雑務を任されるなんて想像もしていませんでした。刀としてすら未熟な僕なのに、いくつもの仕事をこなすなんて出来るのかなあって、不安でいっぱいだったんです。
とは言え、いざ手順を覚えてしまえば案外どうにかなるもので、不安なんてあっという間に吹き飛んでいきました。主さまや邸に住まうみんなが過ごしやすい環境を作るためだと思えば、どんな作業も苦ではありません。
「きっとすぐに慣れちゃいますよ。僕もそうでしたから」
だからがんばりましょう、と励ませば、彼は苛立たしげにこちらを見遣ります。お馬さんの足元に屈んでいるせいだとは思うのですが、僕を睨めあげているようにも見えました。ほんの少しだけ、体が強張ります。
「慣れる慣れないんじゃねぇんだよ。こんなんじゃなくってさぁ、戦に出させろって言ってんだ」
吐き捨てるような口調も相まってか、その一言で僕はすっかり萎縮してしまい、誤魔化すみたいにお馬さんの頭を撫でました。動揺が伝わったのでしょう、僕を見つめるつぶらな瞳がふるふると震えます。
たっぷり時間を置いてから彼の様子を窺うと、視線はすでに自身の手元に落とされており、僕の怯えた態度に気付く気配もありません。不服げではありましたが、その手はきちんと蹄に油を馴染ませる作業を繰り返していました。どうやら特別怒っているわけではなさそうです。全身に走った緊張がほどけていくのが分かりました。思わずこぼれた溜め息を覆い隠すように、お馬さんの細い鳴き声が馬小屋に響きます。
彼がここで生活を始めて、かれこれ三日になりますが、その間に僕は何度も同じ緊張感に襲われていました。
初めて対面した際に感じた通り、彼は同田貫さんとは異なる空気を持った人です。正確には、今の同田貫さんとは異なる空気、と言ったほうが良いでしょうか。
荒々しい物言いから鋭い目付きまで、同田貫さんと比べて彼はすべてが尖っていました。傍目には微々たる差かもしれませんが、僕にははっきりと分かります。そしてその誰に対しても好戦的な態度は、出会った当初の同田貫さんを彷彿とさせるのです。彼と過ごしていると僕の感覚は過去に引き戻され、当時同田貫さんに抱いていた恐怖心がまざまざと蘇ってくるのでした。
「そんで? 次は何すりゃ良いんだ。邸の掃除か、野菜の収穫か?」
蹄の手入れを終えた彼が、汚れた手を拭いながら僕に指示を仰ぎます。なんだかんだと文句は言っても、きちんと取り組むところは同田貫さんと同じです。やっぱり根っこは同じ刀なんだなあ、ってなんだか感心してしまいました。
もしかしたら彼も、時間が経てば今の同田貫さんとまったく同じ中身を持つようになるんでしょうか。僕にやさしく包み込むようなまなざしをくれたり、手を握ればしっかりと握り返してくれるような、そういう関係をまた一から築いていけるんでしょうか。うんうんと唸ってみたけれど、いまいち想像がつきません。
「やれってならやるけどよ、俺は野菜と雑草の区別なんてつかねぇからな。役には立たねぇぞ」
「え、えっと、たしか……明日はもうお迎えの来る日でしたよね」
手伝ってもらえると助かるのは事実でしたが、彼は預かりものなのです。お迎えの人たちがやって来たそのとき、疲労でぐったりとした状態の彼を差し出すというわけにはいきません。
仕事の流れを覚えてもらうくらいでいいよ、と主さまも言っていましたから、あとはのんびり休んで、明日が来るのを待つだけです。
そう告げると、彼は拍子抜けしたような顔で頷きました。すっかり綺麗になったお馬さんの背中を一撫でして、僕たちは邸へと戻ります。
大股で歩く彼から引き離されないよう必死になるあまり、足をもつれさせた僕は派手に転んでしまいましたが、その手が差し伸べられることはありません。どんどん遠ざかっていく背中が寂しくて、つん、と鼻の奥に痛みが走りました。
日中は人影のまばらだった本丸も、夕刻を過ぎればにわかに活気づき、勝ち戦を祝う声やお酒を愉しむ声であふれかえります。僕に与えられた体はまだまだ子供でしたから、充満する酒気だけですっかり酔っぱらってしまうのはいつものことで、今夜もくらくらと眩暈のしそうな酩酊感に襲われていました。火照った体を冷まそうと、おぼつかない足取りで縁側へと向かいます。お酒のにおいから逃れるように、広間から随分離れた場所でようやく腰を下ろし、涼やかな空気を目一杯吸い込みました。
思い思いに言葉を交わし合う人の気配も、ここまで来れば騒がしいと感じることはありません。音楽のように混じりあった声たちが、障子をすり抜け僕の耳たぶをくすぐっていきます。それはとても心地のいい響きでした。
明日は二振り目の彼が本丸を去る日であり、空をたくさんの星が駆ける日です。流星群の夜、と乱兄さんは呼んでいたでしょうか。主さま曰く、様々な条件が上手く重ならないと起きない現象で、次に見られるのは随分先になるのだそうです。
夜になるまで彼がここにいてくれたら良いのになあ、と、ぼんやり思います。綺麗な空を見上げれば、彼だって少しは穏やかな表情を見せてくれるんじゃないかと期待しているのです。たった四日間だけの付き合いとは言え、眉根を寄せた険しい顔しか見られずにお別れなんて悲しかったし、このままでは彼を思い出すたび、転んだ僕を気にも留めず去っていく姿ばかり蘇ってしまいそうでした。
夜を漂う冷たい空気にあてられ、くしゅん、とくしゃみを一つこぼした僕の背に、軽い感触が降ってきます。振り向いた先に立っていたのは同田貫さんで、体を覆っているのは薄手の毛布でした。かすかに漂う汗のにおいに鼻を鳴らし、「おかえりなさい」と言えば、「ただいま」と返ってきます。乱れた僕の頭を撫で、同田貫さんは傍らに腰を下ろしました。まるで火を焚べたみたいに、僕の右側はたちまちあたたかくなります。
「すっごくつかれた顔してます……たしか今日は遠征でしたよね」
「あー……警備のはずが城の中に籠りっぱなしで、使い走りにされたんだよ。ったく、どいつもこいつも俺たちをなんだと思ってんだか」
時折相槌を打ちながら不満げな声に耳を傾けていると、同田貫さんは不意に僕の顔を覗き込みました。
「なんだよ、お前も暗い顔してんな。また厚か?」
沈んだ気持ちを見抜かれ、どきりと心臓が跳ねます。いつもみたいに笑っているつもりだったけれど、そんなにひどい顔をしているんでしょうか。慌てて頬に手を遣るけれど、分かるはずもなくて困り果てます。
厚兄さんとの関係について、僕が頭を悩ませているのは事実でしたが、僕の気持ちを陰鬱にさせている最大の要因は目の前の同田貫さんにありました。
この数日の間、僕は同田貫さんに何度も「間違っています」って伝えようと試みましたが、躊躇うばかりで結局何も言えずにいるのです。自分の意気地のなさが嫌になります。
厚兄さんは僕を「べそべそ泣いてばかり」だと言いましたが、まったくその通りでした。厚兄さんは何もおかしなことは言っていません。どうしてこんなことになっちゃったんだろう、と嘆いてべそを掻くだけの僕に、誰かを無神経だなどと罵る権利はなかったんです。
僕はこれからも弱虫なまま生きていくんでしょうか。誰かのことを助けたいとか、間違いを咎めようという意思があっても、ただ思うばかりで行動に移せず後悔し続けるんでしょうか。
なにも答えられずにいる僕を、二つの瞳がじっと見つめていました。池の方から時折響く水音と、広間から漏れ出す声の群れがやたらと耳につきます。
その沈黙はどれくらい続いたでしょう。僕がこぼしたくしゃみに被さるように、同田貫さんの唇から嘆息が漏れます。
「なんかあんならはっきり言っちまえよ」
「い、いえ、なんでもないんです……っ。ほんとに、なんでも」
「……言いたくなきゃ良いけどよ、口にすりゃ多少は気も晴れると思うぜ。お前みたいな子供が落ち込んでる顔見てみぬふりなんかしたら、俺が気分よく寝れねぇんだよ」
同田貫さんはぶっきらぼうに言い放つと、誤魔化すみたいに僕の鼻先を摘まむのです。虚を突かれ、硬直する僕の目に、わざとらしく顰められた顔がはっきりと映ります。照れ隠しみたいなその表情に切なさが込み上げ、鼻の奥をつん、とやわらかい痛みが走りました。
本当は自分のことで、三日月さんとのことで頭はいっぱいなはずなのに、どうしてこの人は僕に不恰好なやさしさを向けたりするんでしょう。僕は同田貫さんのそういうところが好きで、でも今はやきもきして仕方がないのです。
僕たちはたくさんの時間を分けあって、たくさんの言葉を交わしあってきました。泣いたり笑ったり、時には怒ったり怒られたりする毎日を共有してきたのです。
重ねてきた時間が一つでも欠けていたら、僕が同田貫さんをやさしい人だと思うことも、こうして笑いあうこともなかったんだろうってことに、僕は気付いています。たとえそっくりな器を用意したって、心の形までは模倣出来ないんじゃないかなってことにも、気付いているんです。
そんな、鈍感な僕でも分かるくらい簡単な事実に、他人の機微を見抜ける同田貫さんみたいな人が気付かないはずないじゃないですか。代わりがどうとか、へたくそな嘘を並べて虚勢を張って、なんで知らないふりをするんですか。
湧きあがる釈然としない想いに涙がこぼれそうになったとき、ふと厚兄さんの言葉が脳裏に過ぎり、僕は震える拳を握り締めました。
僕は言わなきゃいけません。
非力で、臆病で、泣き虫で、おまけにとっても不器用な僕のままでいるのはやめようって決めました。――べそべそ泣いてばかりなんて、黙って見ているだけなんて、そんなの嫌だとあの日僕はたしかに思ったんです。同田貫さんが僕に与えてくれたしあわせを少しでも返すため、僕は変わらなきゃ駄目なんです。
「……同田貫さんはうそつきです」
絞り出した声は情けなく震えていました。言葉にした途端にたくさんの後悔が押し寄せてきて、知らないふりをしていたら笑顔のままでいられたのに、なんて狡い考えが過ったりもします。同田貫さんの表情がたちまち曇りはじめると、後悔は更に膨らみました。
でもね、僕はもう三日月さんを想って翳るその瞳を見たくありません。三日月さんと二人きりで積み重ねてきた時間を、記憶を、嘘でも代替の効くものだなんて言ってほしくないんですよ。
僕は同田貫さんが大好きです。
僕は乱暴に見えて実は優しい同田貫さんが好きです。僕とお話をするときは必ず目線の高さを合わせてくれて、僕の目をまっすぐに見てくれる同田貫さんが好きです。泣き虫で弱虫な僕の鍛練に根気強く付き合ってくれて、戦でその成果を発揮できたと喜ぶ僕をぶっきらぼうに褒めてくれる同田貫さんが大好きです。
だけど一番好きなのは、三日月さんと二人で過ごすときに見せる、穏やかで幸福に満ちた同田貫さんの表情でした。
「ほんとは、ほんとは僕たちに代わりなんていないって知ってるのに、なんで嘘をつくんですか」
僕が次々に吐き出していく声に、同田貫さんは顔を歪めます。咄嗟に噤んだ唇からは、決して本音を晒すつもりはないという強い意思が滲んでいました。
徐々に険しくなっていく表情の奥で、誤魔化す言葉を探しているのでしょうか。だけど僕は「思い違い」だなんて言いくるめられて終わるのだけは嫌です。自分に嘘をつく同田貫さんをこれ以上見ていられないんです。
「知ってるから、みか、っ……三日月さんに庇われたとき、あんなに怒ったんじゃないんですか?」
しゃくりあげた瞬間、同田貫さんのまぶたが震えました。
涙があふれださないように、顎を反らして悪あがきする僕に深々とため息をつくと、その手が強引に頭を押さえつけます。案の定、俯いた途端に涙腺は決壊しました。剥き出しのふとももが塩辛い雨に濡れていくのが悔しくて、ぎゅう、と唇を噛み締めます。
「代わりが利くって思ったほうが楽だろうが」
嗚咽の合間に、同田貫さんの声が響きました。
僕はずっと考えていたのです。身を挺して自身を庇った三日月さんに、どうして同田貫さんは暴言を吐きつけるほどの怒りを覚えたんだろうって。刀としての矜持がどうとか、それらしい理由はいくらでも思いつくけれど、答えはとても単純だったんです。
三日月さんを失うのが怖かった。ただ、それだけでした。
いくら嘘で固めたって、三日月さんが失ったら二度と手に入らない大切な存在だって事実は、決して覆らないでしょう。自分の気持ちを騙せるほど、僕たちの心は鈍感ではないのです。同田貫さんは鉄のように頑強だと言い張るのだろうけど、心は人の体よりずっと脆く、繊細なものでした。
「……好きにならなきゃ良かったなんて、俺は思いたくねぇんだよ」
それっきり押し黙った同田貫さんは、もう何も話すことはないとばかりに立ち上がり、僕に背を向けます。
戦を終えた直後のような疲労感に呆然としながら、僕はふらふらと閨へ向かいました。室内にあったのは身を寄せて眠る虎たちの姿だけで、起こしてしまわないように声を殺してすすり泣きます。どれくらい経った頃でしょう、目元をほんのりと赤く染めた厚兄さんが現れたかと思えば、ぎょっとした顔で僕を見ました。瞬間的に唇が開きますが、それだけです。絶対に声なんかかけないぞ、と言った表情で口を結び、ふたたびどこかへ消えていきます。
ぐるぐる、ぐるぐると考えます。
同田貫さんの意地を解く言葉も、厚兄さんの意地を解く言葉も、僕にはまだ見つけることが出来ませんでした。僕がもっと賢くて、たくさんの言葉を知っていて、弱虫じゃなければ見つけることが出来たんでしょうか。
好きになったことを後悔したくないから、三日月さんは代わりが利く存在なんだって思い込もうとしている同田貫さんの思考も、理解出来ないわけではないのです。だって僕たちの毎日は常に死と隣りあわせで、別れの日がいつ訪れるともしれません。そうやって心を守らなければ生きていけない人だって、中にはいるのだと思います。
それでも、僕の中にはどこか釈然としない想いが渦巻いていました。本当にそれで同田貫さんはしあわせなのかな、という漠然とした違和感です。
もやもやと胸に覆いかぶさる違和感が、警鐘を鳴らしているような気がしました。自分を騙すことを選択した同田貫さんが、後悔に押しつぶされる姿が頭を過ぎって仕方がないのです。どうして僕はそんな風に思うのでしょう。どれだけ考えてもはっきりとした答えは出ず、涙ばかりがとめどなくあふれ、僕の体を濡らします。
肌に吸い込まれ、ただ乾いていくだけの役立たずな涙は、その晩尽きることなくあふれ続けました。