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 今朝の本丸はいつになく閑散としていました。
 小鉢に盛られたひじきの煮物をつまむふりをして右手を見ると、骨喰兄さんの姿があります。さくら型の麩が浮かんだお味噌汁を啜って左手を見ると、乱兄さんの姿があります。そして、醤油を取ろうと手を伸ばした正面には、鮭の切り身と格闘する厚兄さんの姿があります。
「主さまがね、もうじき流星群の夜が来るって教えてくれたんだ。ボク、その日は非番にしてもらおうと思って」
 喜々としたその声に釣られるように、厚兄さんが目線を上げたので、僕は慌てて醤油入れを傾けました。
 どうしてこういう、なるべく顔を合わせたくないときに限って、一つのちゃぶ台を囲んで食事をする羽目になるんでしょう。真っ白なお豆腐に染みていく色を見つめ、靴下に包まれた爪先をむずむずと動かす僕を尻目に、厚兄さんは「なんで?」と胡散臭げな視線を乱兄さんに遣ります。

「星の流れる夜ってなんかロマンチックじゃない? そんな日に戦でドロドロになるの嫌だもん。あっ、そうだ、清光さんにも教えてあげなきゃ!」
 言うが早いか、立ち上がった乱兄さんは一目散に駆けていきましたが、加州さんが現在遠征中であるのは周知の事実です。好き嫌いの激しい乱兄さんの目論みは明らかでした。小鉢の中に散らばる大豆を目にし、骨喰兄さんが小さく溜め息を吐きます。
 きっとしばらく戻ってこないのだろうなあ、と思いながら、僕は自分の小鉢に盛られたひじきをつつき、煮詰まった大豆を舌の上で転がしました。ご飯を残すと勿体ないおばけが出るんだよ、と以前主さまが教えてくれたので、僕は好き嫌いなんてしません。にんじんも茄子も葱も、それから大豆だってちゃんと食べられるんですよ。
 もしも鼻の奥に広がる青臭さに息が詰まったときは、お茶と一緒に流し込めばいいんです。ぬるい液体をごくん、と飲みくだす音がやけに大きく響いたので、僕は思わず喉を押さえます。

 乱兄さんがいなくなったその瞬間から、食卓には静寂が広がっていました。時々、お箸が食器にぶつかる音を除いて、一切の無音が広がる空間の居心地の悪さときたら言葉に出来ません。
 骨喰兄さんの口数の少なさはいつものことでしたが、厚兄さんはどちらかというとお喋り好きな人でした。そんな厚兄さんが無言を貫いているのは、やはり同じ食卓に僕がいることが原因なのでしょう。
 僕たちが喧嘩をしたあの日から、一体何日が経過したのか正確には覚えていませんが、とにかく厚兄さんは未だ僕と仲直りするつもりはないようでした。不運なことに、頼りのいち兄は何日か前から長い遠征に出ており、相談することも叶いません。漂う空気の気まずさに、ごはんが喉につかえます。
 一足早く朝餉を終えた虎たちが無邪気にじゃれあう姿を横目に映し、悩み知らずで奔放な彼らを恨めしく思う僕は、もしかしたら飼い主失格なのでしょうか。
 暗礁に乗り上げた厚兄さんとの関係を忘れて、僕だって日がな一日ひなたぼっこをして過ごせたらいいのに。そんな僕の気持ちなど露知らず、虎は大きなあくびを漏らします。

「ごちそーさま」
 やがて厚兄さんは手のひらを合わせ、何食わぬ顔で去ろうとしましたが、見れば汁椀の中には手付かずの葱がたっぷりと残っていましたから、骨喰兄さんの手により敢えなく捕獲されました。
 ふたたび席についた厚兄さんは、なにやらぶつぶつと文句を垂れながら葱を箸でつつきます。いつもなら「にんじんと交換しようぜ」なんて、悪戯っぽく交渉してくるところですが、今日は話しかけてくる素振りも見せません。
 それどころか、つん、と顔を逸らす厚兄さんに、思わず涙目になった僕の膝小僧を、虎が慰めるように舌先でくすぐります。互いに決して視線を合わせず、黙々と箸を動かす僕たちの様子に、骨喰兄さんは憂鬱な表情を見せました。


 気まずい雰囲気のまま食事を終えた僕を待っていたのは、途方もなく退屈な時間です。洗い物を手伝おうとすれば「今日は非番だろう」と炊事場を追い出され、話し相手を見繕うにも邸に人気はありません。最近の僕は時間が空くたび、同田貫さんの元へと遊びにいっていましたから、こういうときどうやって暇を潰せばいいか分からないのです。結局、木漏れ日の中、お昼寝に興じる虎たちを眺めて過ごすことにしました。

 僕と厚兄さんの仲が未だ険悪であるように、同田貫さんもまた、三日月さんとの関係をなかなか修復出来ずにいます。いえ、もしかしたら二人は――少なくとも同田貫さんは――初めから仲直りする気などないのかもしれません。鉢合わせることを嫌ってか、ここ何日かは食事の席に姿を現すことすらないのです。
 二人の関係が更に悪化してしまった原因は、やはり夕餉の席での一件にあるのでしょう。僕には三日月さんの漏らした言葉が何を意味しているのか分かりませんし、問い質す勇気だってありません。ただ一つたしかなことは、その言葉に同田貫さんの心が追い詰められているという事実だけでした。

 ひどく傷付いたような、それでいて悲しげなあの表情を思い出すたび、やっぱり同田貫さんの心は鉄で出来ていたりしないんだ、と僕は安堵し、同時に複雑な気持ちになります。もしも本当に鉄の心を持っていたら、同田貫さんがあんな顔をすることもなかったのにって思うんです。大好きな人が苦しんだり悲しんだりする姿なんて、僕は見たくなかったから。
 同じように、一人きりで過ごす同田貫さんの姿だって見たくありません。何かが足りない気がして不安になる、というのでしょうか。三日月さんと同田貫さんは二人で一つだと、その傍らに寄り添って然るべきだと、僕の中に摺り込まれているのだと思います。
 同田貫さんが一人きりにならないように、そして二人が仲直りするきっかけを見逃さないように、側にいればなにか力になれるかもしれない。烏滸がましくもそんなことを考えながら、僕は二人が当たり前に笑い合い、ふたたび寄り添い合う日々を夢想していました。


「……! 同田貫さんっ!」
 空が橙に滲み出した頃、主さまのお部屋に続く長い廊下の先に見慣れた後ろ姿を発見した僕は、嬉々として駆け寄りました。振り向いた同田貫さんは、その双眸をぱちくりと瞬かせます。
「同田貫さん、おかえりなさいっ」
「……ん、おう」
「今帰ってこられたばかりですか? 今日はたしか厚樫山でしたよね、怪我がないみたいでよかったぁ……」
 僕はいつものようにお迎えの挨拶を次々と口にしますが、同田貫さんは固い顔つきでこちらを見下ろし、「ああ」とか「そうか」なんて素っ気ない声を返してくるばかりでした。あれ、と僕は首を傾げます。普段なら、おかえりなさいと駆け寄った僕の頭を、同田貫さんはそのごつごつと固く太い指で撫でてくれるのですが、今日はその手が伸びてくる気配はありません。

 それに、なんだか物珍しげなまなざしが僕に向けられているのは気のせいでしょうか。顔になにかついているのかも、と慌てて頬を擦ってみても、同田貫さんの視線に変化はありませんでした。つんと尖った空気を全身に纏う同田貫さんを、戸惑いながら窺います。
「あの、その、もしかしてなにか怒ってますか……?」
「あ? 別に、んなことねぇけど」
 すぐさま返される否定の声に胸を撫で下ろしますが、それならこの剣呑な表情は一体なんだろう、と困惑は深まるばかりでした。
 同田貫さんは、訳もなく僕に対してこんなにも鋭いまなざしを向けたりはしません。高いところから見下ろし、威圧感を放ったりはしません。警戒するような態度で、腰に下げた刀に手を添えたりはしません。ぶっきらぼうな喋り方はもちろん、なにを取っても同田貫さん以外の何者でもないこの人が、なぜだか僕には知らない人のように思えてならないのです。

 見せる仕草一つ一つに違和感を覚え、思わず後ずさった僕の背が何かにぶつかりました。咄嗟に振り向いた僕は、はっと目を見張り、そうして視線をあちらこちらと迷わせます。
「何やってんだ、あぶねぇだろ」
 状況を理解するより早く、響いたその声は僕の背中を受け止める人――同田貫さんが発したものでした。目の前にいるのは同田貫さん、振り向いた先にいるのも同田貫さん。そこで僕はようやく、抱いた違和感の正体に気付きます。
 背後の同田貫さんは跳ねた僕の髪をいつもの手付き撫ぜ、「そいつ、厚樫山で拾ったんだよ。今から主んとこ連れてかねぇと」と、一方を顎でしゃくりました。
「――ああ。それ、ここに住んでる刀か。そのわりになよっちぃから何者かと思ったぜ」
 それ、と僕を指した二振り目の彼が、いからせた肩を撫で下ろします。やっぱり目の前に立つこの人は、僕の知らない同田貫さんだったんだ。頭部を這う指の感触のくすぐったさに首を竦め、安堵の息を吐きます。

 しかし妙にとげとげしい雰囲気は相変わらずで、背後から漂う慣れ親しんだ空気感と比べると、その違いは一目瞭然でした。思わず苦笑を漏らした僕に、二人はよく似た顔を訝しげに歪めます。単純な顔立ちだけで言えば、やはり二人は見分けがつかないほどそっくりです。
「話しかけてみたらいつもの同田貫さんと全然違うから、びっくりしちゃいました。なんだか知らない人みたいだなあって……よかったぁ」
 はにかむ僕を見つめ、同田貫さんは面食らったように瞬きを繰り返しました。

「全然違う? 何から何まで俺そのものだろ。鏡でも見てるみたいで気味がわりぃくらいだ」
「見た目は似てますけど、でも」
「……だぁから、目ぇこすってよく見てみろって。もしかして寝惚けてんのか?」
「だ、だって、ほんとにぃ……」
 呆れた顔の同田貫さんと、欠伸をこぼすもう彼がまるで同じ容姿を持っていることはたしかです。けれどやっぱり、僕が大好きなのはこちらの同田貫さんなんだなあって、なんとなく分かってしまうのだから不思議でした。傍目に明らかな違いではないけれど、二人の持つ雰囲気はまるで異なるのです。

 あれが違う、これが違う、と感じた差異を挙げ連ねるのを待たずして、現れた主さまが二人を連れていってしまったので、結局話はうやむやなまま終わらざるを得ませんでした。
 軋む床板を静かに踏み締める同田貫さんと、反対に激しく踏み鳴らす彼の後ろ姿を釈然としないまま見比べます。歩き方一つ取っても二人はこんなに違うのに、どうして張本人である同田貫さんはそのことに気付かないのでしょう。
 僕は首を傾げ、そういえばあの乱暴な歩き方は出会って間もない頃の同田貫さんと瓜二つだなあ、と懐かしく思いました。


 主さまが僕たち刀剣男士を広間に集めたのは、それから数刻のちのことです。
 湯浴みを終え、無数の人影がちらつく広間へと足を踏み入れると、まず三日月さんの姿が目に入りました。そして、三日月さんを避けるように壁際に立っているのが同田貫さんです。騒がしい室内で、二人の姿だけがやけに際立って見えました。
 僕が障子を閉めたのと時を同じくして、同田貫さんが口を開きます。
「……首の回らない状況だってのは分かったけどよぉ、だからってなんで俺らがそいつを世話しなきゃなんねぇんだ」
 眉を顰める同田貫さんの視線の先にあるのは、主さま、それから二振り目の彼の姿です。どうしてここにいるのだろう、と目を瞬かせる僕を尻目に、主さまが口を開きました。まるで子供に言い聞かせるような、ゆっくりとした口調で紡がれる言葉を拾っていくと、その全貌がようやく見えてきます。

 要約すると、深刻な資材不足に陥り、鍛刀もままならない本丸が付近にあるのだそうです。そこに譲り渡すことが決まった彼を、迎えが来るまでの数日間、手の空いている者で面倒を見てほしい――という話でした。
 突然の召集に身構えていたこともあってか、造作もない話のように思えましたが、同田貫さんは相変わらず不服げな態度を崩そうとしません。それどころか、自分にそっくりな彼を見遣り、思い切り顔を顰める始末です。やはり同じ顔をした相手と関わることに抵抗があるのでしょうか。そういえば、廊下で遭遇したときも同田貫さんは気味が悪いと漏らしていました。

「……まあ、仕事だって言われりゃそれまでだけどさぁ」
 それでも、否とは言わない辺りが同田貫さんらしくて、僕はその真摯さを改めて実感します。同田貫さんが仕事を拒否し、放棄するところは一度たりとも見たことがありません。たとえそれが意にそぐわないものだとしても、与えられたからには誠実に取り組む人でしたから。
 渋々ながら折れる姿勢を見せた同田貫さんに、主さまの表情が和らぎました。どうやらこの件に関しては穏便に収まりそうです。ほっと息を漏らし、「たしか短刀部屋のお隣が空いていましたよね」と進言した僕の言葉尻を掴むように、明朗な声が響きました。

「主や、俺の部屋は一人で使うにはちと広くてな。共寝の相手もおらんことだ、それは俺のところに置いてくれんか」
 その声の主は三日月さんです。人の好い笑みを浮かべた双眸は、無関心に佇む刀たちの合間を縫い、同田貫さんをまっすぐに射抜いていました。
「まだ右も左も分からんのだろう。寝起きの際に誰かがいたほうが安心ではないか?」
 主さまは三日月さんの意見に納得した様子で、ならばお前に頼もう、と一も二もなく頷きましたが、善意にも思えるそれが僕には当て付けのように聞こえてなりません。同田貫さんも同じ感想を抱いたのでしょう、薄い唇が歪みます。
 しばし焦げ付くような鋭い視線をぶつけ合う二人ですが、先に目を逸らしたのは同田貫さんの方でした。主さまは解散を言い渡すやいなや、他の刀剣男士と揃って私室へと消えていきます。しかし二人に挟まれた僕はすっかり狼狽し、出ていくきっかけを逃してしまいました。三日月さんと二振りの同田貫さん、それに僕を含む四人だけが取り残された広間に、不穏な空気が漂います。

「なにをそう睨むことがある、正国」
「っは……あんたもようやく俺の意見を認めたのかと嬉しくなっちまってさぁ。こんだけそっくり同じなんだ、代わりが効くのは事実だって分かったんだろ?」
「何を誤解しているのか俺には分からんが、嬉しいと言うわりに浮かない顔だな。もう少し上手く嘘を吐いたらどうだ」
 応酬を交わすにつれ、同田貫さんの表情は次第に陰りはじめ、三日月さんの瞳にもまた、悲痛な色が滲みはじめます。はくはくと開閉する口元が、水際に投げ出されあえぐ魚を思い起こさせました。苦しげな顔を見せながら、それでも二人はその唇を噤もうとはしません。
「……嘘? 笑わせんな、あんたのその自信は一体どっから湧いてきてんだ。驕るのも大概にしろっての」
「なに、嘘一つ見抜けぬほど耄碌してはおらんさ。お前は芽生えたものを否定して、思ってもいないことばかり口にする」
「っ……それが驕りだって言ってんだよ。ああそうか、あんた、自分も今は代わりの効く戦道具だって思いたくねぇのか? 天下五剣が量産品と一緒くたにされるなんてとんだ屈辱だ。人間ごっこして目を逸らしたくもなるよなぁ」
 同田貫さんは決して声を荒げたりしなかったし、その手を血に濡らすこともなかったけれど、これはまるで暴力です。自らの心臓を抉りながら、三日月さんのやわらかい場所を斬りつけ傷付けんとするその姿を、僕は呆然と見つめていました。
 止める手立てはあったのです。同田貫さんは間違っています、って。言葉を紡げる口があるのに、声があるのに、僕はなにも言えません。ただ、全身を包む奇妙な浮遊感に目を回すばかりです。

 殺伐とした空気の中、二振り目の彼だけが我関せずといった様子で下げた刀を弄んでいましたが、激化するやりとりに耐えかねたのか、ふと舌を打ちました。 
「なぁ、それいつまで続くんだ」
 彼から注がれる胡乱な視線に、二人は声を飲み込みます。三日月さんはまつげを伏せ、疲れきった表情を浮かべました。
「正国や、何故そう拒むのだ。俺たちはもう使われるだけの道具ではないと、お前は分かっているはずだろう」
 言いながら、三日月さんは畳を踏みしめ、同田貫さんの眼前で立ち止まります。二尺にも満たない距離に迫る三日月さんに、同田貫さんは慄いているようにも見えましたが、決して逃げ出そうとはしませんでした。
 伸びた手が、灰黒色に包まれた胸元を叩きます。ふしくれだった手のひらが触れたそこは、時折痛んだり、歓喜に打ち震えたり、興奮に高鳴ったりする、僕たちの心がしまってある場所でした。
「俺と重ねてきた時間も、お前にとっては代替の効くものなのか」
 三日月さんの唇から、とても小さな声があふれだします。ぎゅう、と胸が切なくなるようなそれに、同田貫さんの瞳が激しく揺らぎ、鋭い眼光を滲ませました。
 口元を戦慄かせるその表情は、今にも砕けそうな硝子細工を彷彿とさせます。壊れ物、なんて言葉は同田貫さんにまるで似合わなくて、けれど僕の目にはひどく脆い存在であるように見えたのです。臆病に背中を丸めた獣の姿が、脳裏を過りました。

 三日月さんの手を乱暴に振り払い、同田貫さんは何を口にするでもなく早足に去っていきますが、その背中にはいつものような覇気は感じられませんでした。遠ざかっていく足音に溜め息を漏らし、「すまんな」と呟いた三日月さんの指が、僕の頭に触れます。

「あれの意地を解くのに、どんな言葉を選べば良いか俺には分からんのだ」
 憂いを帯びた三日月さんの声に、僕は気の利いた言葉一つ返すことは出来ませんでした。曖昧に頷き、気詰まりな空間から逃げるように廊下に飛び出しました。これまで目にしたことのなかった同田貫さんの沈痛な面持ちが何度も蘇り、胸に重たくのしかかります。

 感傷に溺れる体を引き摺るようにして、ようやく閨へと辿り着いたものの、眠りについて間もないであろう兄たちを起こしてしまうのも憚られ、溜め息と共に縁側へ足を運びました。
 灰色のちぎれ雲がいくつも浮かぶ、濁った空が僕を見下ろします。星影は淡く、憂鬱な気持ちを吹き飛ばしてはくれません。
 大好きな人が悲しんだり、傷付いたりする姿を見るだけで、こんなにも気分が沈んでしまうのは何故でしょうか。
 だけど、反対に大好きな人の笑顔が活力の源になったりもするのだから、これが自然の摂理なのかなあ、と妙に納得している自分もいました。どんなに眠くて倒れそうでも、お腹が減って動けなくても、同田貫さんの笑顔を見るだけですべてがなんでもないことのように思えるんです。ふふ、と溢れだした笑みがその証拠でした。

 それはまるで魔法のようで、一体いつのことだったか、同田貫さんは魔法使いなのかもしれない、と声を大にして訴えたことがあるくらいです。あのときみんなはお腹を抱えて笑っていたけれど、僕は未だに同田貫さんは魔法を使えるんだって信じていました。だって、三日月さんがくちびるを噛み締める僕を手招きして「あれは正国を心底好いている者だけがかかってしまう魔法だからな、皆には分かるまい」と、こっそり教えてくれたんです。

 ――じゃあ、じゃあ、三日月さんと僕にしか分からない魔法ってことですか……?

 小さな声で問いかけた僕に、三日月さんは笑みを向け、しいっ、と人差し指を立てます。そうして僕の耳元に唇を寄せると、楽しげに囁いたのです。

 ――もう一つ教えてやろう。あの魔法は、正国自身が『大好き』な者にしかかけることは出来んのだ。

 俺と五虎退は幸せ者だなあ、と朗らかに告げられ、ようやくその言葉の意味を理解した僕は、火照りだした頬を押さえました。
 僕の大好きな人が、僕のことを大好きでいてくれる。なんて幸福なんでしょう。すっかり舞い上がった僕の頬が、更に更にと熱を昇らせます。
 三日月さんは僕のようにはしゃいだり、はにかんだりはしませんでしたが、その瞳に宿した月は何よりも饒舌でした。月がふわっとお腹を膨らませ、幸福に満ち満ちた色を灯します。想いの深さを知らしめんと輝き、発光するその美しさと来たら、思わず声を失ってしまうほどです。
 
 同じ『大好き』でも、三日月さんのそれは僕と比べ物にならないほど強く大きいものなのだろうと、そのとき漠然と思いました。そしてきっと、同田貫さんが僕たちに向ける二つの『大好き』にも、決して埋められない差があるのだと気付いてしまったのです。
 なんだか僕の気持ちだけおいてけぼりをくらったようで、少しだけ寂しくなったけれど、決して悲しくはありませんでした。二人の間に割り込めるはずがないと、本能的に悟っていたのだと思います。

 二人が互いを想い合う気持ちはまぶしくて、誰が断ち切ることも出来ないくらい強固なものでした。
 だからこそ、と言うべきなのでしょう。想いが強ければ強いほど、ぶつかったときの衝撃が大きくなってしまうことを僕は知っています。
 それでも二人の気持ちは繋がっていました。意地悪に問い詰めてみても、同田貫さんは頑なに認めようとはしないのだろうけど、その想いは三日月さんへとまっすぐに向かっています。そうじゃなきゃ、あんな顔はしないでしょう?
 震える瞳を思い出すだけで涙が込み上げてくるのは、同田貫さんの心がきっと鉄で出来てはいないように、僕の心だって鉄で出来てはいないからです。ならば一体、何で出来ているんでしょう。心の中には何が詰まっているんでしょう。なかなか答えは出ないけれど、なんとなく、もう少しで分かりそうな気がするんです。

「僕にも魔法が使えたらよかったのになあ……」
 情けなく頼りない声が、渇いた夜風に溶けていきます。
 たくさんのしあわせを与えてくれた同田貫さんに、僕だって何かを返したいのです。けれど、大好きって気持ちだけじゃ魔法使いにはなれないことを、僕は知っていました。縋るような気持ちで淡い星たちを見上げます。

 たくさんご飯を食べれば魔法使いになれますか?
 一人でお風呂に入れたら魔法使いになれますか?
 もっと強くなれば魔法使いになれますか?
 どうしたら同田貫さんは笑顔になりますか?
 どうしたら、二人に笑顔が戻りますか?

 僕は弱虫です。
 非力で、臆病で、泣き虫で、おまけにとっても不器用でした。出来ることより出来ないことの方が多くて、いざというとき緊張して動けなくなってしまうこともたびたびあります。
 だけど、それでも僕は、大好きな人を助けたいって思うんです。黙って見ているだけなんて、もう嫌なんです。