星の綺麗な夜でした。
「僕たちの体や心は何で出来ているんでしょう」
 僕の言葉に、同田貫さんは虎の喉をくすぐる手を止め、奇妙なものでも見るような目で僕を見ました。五虎退、という名前の通りに、僕は五匹の虎を抱き締め退かせます。僕の体ごと退かせます。同田貫さんは優しい人だけれど、やっぱりその顔は怒っているみたいで時々怖いのです。
「鉄だろ。人間そっくりな形をして、人間そっくりな肉の感触がする鉄で出来てんだよ」
 死んだら欠けた刃しか残らねえのは、つまりそういうことだろ。縁側に横たわる同田貫さんは、退屈にあくびを繰り返しました。
「まったく同じ名前でまったく同じ姿、そんでまったく同じ中身の人間なんて普通はいねぇだろ。でも俺らは違う。代わりが星の数ほどいる、人間の模造品の量産品だよ」
 見上げた空にまたたく星の数は底なしでした。星は、両手にとても収まらないほどたくさん散らばっていましたが、同田貫さんの言葉は決して誇張ではありません。この世界に一本きりしかない刀でも、それに宿る僕たち付喪神の数は無制限で、まさしく星の数ほど存在します。同時に共存も出来ます。
 けれど僕は同田貫さんの答えに納得がいかないのです。もやもやと、上手く言い表せない気持ちが沸き上がる胸を押さえて、「じゃあ心も鉄で出来ているんですか?」と聞きました。
「……そうなんじゃねぇの?」
 めんどくさそうに言って、まぶたをとろとろと溶かし始めた同田貫さんに僕は唇を閉じるほかありません。僕を含め、粟田口の皆は今まさに眠ろうとしている人の前でお喋りをしたり騒いだり、邪魔をするような分別のない行動は取らないのです。いち兄の教えは絶対で、それはあの鯰尾兄さんですら厳守している決め事でした。
 うつらうつらと船を漕ぎ出した同田貫さんを見ていると、僕もつられて眠たくなってきました。湯たんぽみたいに温かい虎たちが、お腹に抱きついてくるせいかもしれません。
 でも、やっぱり僕は同田貫さんの言葉が間違っているように思えてならないのです。夢見の淵へ辿り着くのはあっという間でしたが、疑問符は尽きることなく僕のなかに溢れ、あの星のように、ちかちかとまばゆい光を放ちつづけました。

星のかたち


 その日は朝から空気が淀んでいて、とても嫌な風が吹いていました。きっとこれから雨が降るのだろうと、察しの悪い僕でも一目で分かるような天気に、仲良しの虎たちも憂鬱な声で鳴いています。
 案の定、お昼を過ぎてすぐに降り出した雨は、じゃがいも畑で草むしりに励んでいた僕と厚兄さんを濡れ鼠にして、濁った雲も低く唸って僕たちを威嚇するのです。
 邸に向かって走り出した厚兄さんを慌てて追いかける僕でしたが、きっと草の根に足を取られたんだと思います、あっと叫んだときには僕の体は地面に叩きつけられていました。濡れて泥っぽくなった土が口の中に潜り込んで、咳き込む僕を見兼ねた厚兄さんがすかさず助けに来てくれます。でも今度は厚兄さんが石ころに躓く番で、僕は畑に飛び込む兄を呆然と見つめることしか出来ません。戦にも出ていないのに泥まみれな僕たちは、今度こそ転んでしまわないようにとぼとぼと邸へ戻りました。
 湯浴みを終え、泥の足あとが並ぶ廊下を雑巾がけします。偶然通りかかった鯰尾兄さんが足を滑らせ、持っていた水桶の中身をぶちまけたのは、きっと廊下がつるつるに磨かれていたからでしょう。水桶に入っていたのが田んぼで獲ったおたまじゃくしだったことも、たっぷりの泥水ごと乱獲されていたことも、それがちょうど僕たちの頭の上にぶちまけられたことも、すべては不幸な偶然でした。

 何が言いたいかというと、その日はとても不運な一日だったのです。
 そして不運は重なります。僕ではなく、大好きな同田貫さんと、その同田貫さんが大好きな三日月さんが次の被害者でした。
 この邸の中で過ごしている間、二人はいつも一緒にいます。主に三日月さんの方が同田貫さんの傍らに寄り添い、四六時中ちょっかいをかけているような状態ですが、同田貫さんもそれほど嫌な顔はしません。乱兄さん曰く、二人は『らぶらぶ』な『かっぷる』なのだそうです。
 だから二人が戦から帰還したとき、互いを支えあうように寄り添っていたことに、僕は何の違和感も覚えません。三日月さんが激しく負傷していて、壊れる寸前といった姿であること。肩を支えている同田貫さんもまた、お腹からたくさんの血をこぼしていることを除けば、いつもと変わらぬ光景だったのです。

 僕たちは刀です。そして、僕たちの存在意義は戦うことにあります。人間と変わらない姿をしていても、僕たちの胸の中には常に鋭い刃が収めてあって、それはいわゆる本能と呼ばれるものでした。誰もが湧きあがる本能には抗えず、弱音を吐いたり文句を言ったりしながらも、戦場では持てる力の限りを尽くして戦います。
 たとえ体を貫かれようと、敵を討ち取るという使命感がどうしても先行しがちなため、無茶をして大怪我を負うこともたびたびありました。特に同田貫さんは負傷を恐れません。いつもたくさん無茶をして、それは同じ刀剣から見ても目に余るほどの無茶だったので、やっぱりたくさん怒られています。
 けれど三日月さんは引き際をきちんと分かっている人でした。本当に危険だと感じたら、すかさず一歩退いて事態を好転させる術を考えるような、理性的な人です。そんな三日月さんがどうして、と僕は動揺しました。傍らの同田貫さんが見たこともないような悲しげな顔で、それでいて何かに酷く怒っているような顔でいたことも困惑を煽りました。
 そうして僕は、手入れ部屋に向かう二人の背中を見つめ、どうしてどうしてと思案を巡らせます。夕餉の時間になっても答えは出ず、気もそぞろにお茶碗をつつく僕を見兼ねたいち兄が、おでことおでこを合わせて熱を測ってくれました。ぶつかるおでこはひんやりとしていて気持ちがよく、乱兄さんが「ボクもボクも!」と前髪を掻きあげたのを皮切りに、いち兄は粟田口全員の熱を測るはめになったのです。



 夜遅く、兄たちが寝静まった頃のことです。僕はこっそりと閨を抜け出しました。
 月が一番高いところに昇っています。暗く、人気のない廊下を一人で歩くのは恐ろしくて、抜け出したことを少しだけ後悔しました。けれど僕は手入れ部屋で眠る二人が気にかかって仕方なく、ぎぃぎぃとひび割れた悲鳴を漏らす廊下をひた進みます。
 囁くような低い声が耳に届いたとき、僕はその場で立ち尽くしました。てっきりお化けが出たのだと思ったのです。それはちょうど六尺ほど先にある手入れ部屋から聴こえています。無事に手入れを終えた二人が話しているのだと気付くのに、それほど時間は要しませんでした。

「――な、……――いんだよ!」
「何故――と、……ろう」

 どすん、と、壁を思いきり叩くような音が聴こえました。そのすぐあとに続いた同田貫さんの声は身が竦むほど恐ろしく、三日月さんはのんびりとした、けれど固い声を発しています。何を話しているかまでは聞き取れないけれど、不穏な空気が漂っているのだけは確かでした。
 普段の僕なら、きっと縮こまったままそこから動けなかったでしょう。けれどその夜はどうした訳か、好奇心が恐怖に打ち勝ってしまったのです。
 足音を潜め、障子戸の真横にある壁に凭れます。障子はそのほとんどが薄い紙で出来ていますから、ここまで近付いてしまえば室内の会話は筒抜けでした。
「だから、余計なお世話だって言ってんだろ! なんで俺を庇ったんだよ、俺が死のうがあんたには関係ねぇだろうが!」
 同田貫さんの怒鳴り声に、空気がびりびりと震えます。それは邸中の皆が目を覚ましてしまうのでは、と危惧するほどに激しく、獣の咆哮にも似た凄みのある声です。
「関係ない、か。仮にも睦み合う相手に投げる言葉ではないな」
「っは……惚れた腫れたがなんだってんだ。そんなもん、庇う理由になんかなんねぇだろ」
 そのやりとりから、三日月さんが重傷を負った理由がなんとなく分かりました。きっとまた、同田貫さんは酷い無茶をしたのです。三日月さんが庇わなければならないほど、事態は切迫していたのでしょう。そうでなければ、三日月さんがああも負傷することはなかったでしょうから。
「何故そう言い切れる。自由に操れる体があるというのに、惚れた相手が死んでいく姿をまざまざ見送るのが正しい選択だったか?」
 三日月さんが問いかけます。どくどくと脈打つ心臓の音が聴こえてしまわないよう、僕は胸元を押さえ、同田貫さんの答えを待ちました。

「……死んだら代わりを連れてくりゃいいじゃねぇか。俺らは掃いて捨てるほどいるんだ。人間と違って代替が利くんだから、駄目になれば捨てちまえばいい」

 しん、と。
 水を打ったような静けさが広がりました。
 こんなに乱暴な言い方ではなかったけれど、いつか星を見上げながらお喋りをしたときも、同田貫さんは同じようなことを僕に言いました。けれど、いま僕の中に湧きあがっているのは、そのとき感じた釈然としない気持ちとは少しだけ違います。もっと悲しくて、つらい気持ちです。体を斬りつけられたとき、傷口に広がる焼けたような熱さと痛みによく似た感覚が、じわりと胸に広がっていくのです。
「――正国。聞くが、それは本気で言っているのか」
 無音の世界に、針が落とされます。
 僕の知っている三日月さんの声は、柔らかく、春の木漏れ日みたいにあたたかいのですが、今はまるで別人です。鋭くて、厳しくて、とても冷ややかな声でした。それはいち兄がお説教をするときの声に少しだけ似ていて、僕の体は自然と緊張してしまいます。

「本気もなにも、それが事実だろうが。……あんたが身を呈して俺を庇うことになんかなぁ、なんの意味もねぇんだよ」
 同田貫さんが吐き捨てた直後、ふたたび降りた沈黙は、なんだかとても嫌な感じがしました。閉じた障子の向こうから滲み出す空気を、僕はそんな風に例えることしか出来ません。緊張したり怯えたりすると、言葉がつかえて上手く出てこなくなるのは僕の悪い癖でした。
 もうやめましょう、なんて言いながら僕が部屋に飛び込んだら、この嫌な感じは消えてくれるかもしれない。そう思ったけれど、口も、足も、思うように動いてはくれません。
 いつまでも続く重苦しい沈黙に、どうしようかと立ち尽くしていたそのときです。障子戸が勢いよく開いたかと思うと、苛々と顔を顰めた同田貫さんが現れ、そうして僕の姿にぎょっと目を剥きました。
「ご、ごめんなさ、あの、僕はなにも」
 僕は咄嗟に言い訳を探します。なにも聞いていません、盗み聞きなんてしていません、厠に行こうとしてたんです、今夜は星が綺麗だから遠回りしてみました、それだけです、それだけなんです。――そんな風にすらすらと喋れたなら良かったのですが、僕は慌てふためきしどろもどろになるばかりで、言いたいことの半分も口には出来ません。
 僕が二人の話を盗み聞きしていたのだと、多分同田貫さんは気付いています。なんだかばつの悪そうな、気まずそうな顔をしていますから。

 けれど同田貫さんは決して怒ったりはしませんでした。いつもみたいに僕の頭をかき混ぜて、あっという間に鳥の巣になった髪を、最後にぽんぽんと叩いて去っていきます。いいえ、正確には去ろうとしたのです。
「正国」
 いつの間にか障子戸の際に立っていた三日月さんが、肩をいからせ歩く後ろ姿を呼び止めます。
「正国、お前は――」
 その瞬間、同田貫さんの振り上げた拳が廊下の壁を殴りつけ、重たい音が言葉を遮りました。
 それっきりです。拳のめり込んだ脆い壁から、ぎぃ、と家鳴りのような音が響き、それを合図に同田貫さんが立ち去るまで、三日月さんが声を発することはありませんでした。
 そして翌日から、二人の間に流れる空気はすっかり様変わりしてしまったのです。



 僕たち粟田口の仲のよさには定評があります。兄弟刀と呼ばれることの多い僕たちは、人間の兄弟がそうするのと同じように、兄を兄と慕い、弟を弟と愛でます。
 そんな僕たちも、ときには喧嘩をすることもありました。大事に取っていたお団子を勝手に食べただとか、寝ぼけて顔を蹴飛ばしただとか、普段の仲のよさが嘘のように、とても些細なことをきっかけに喧嘩が勃発してしまうのです。
「五虎退がそーやってめそめそ泣いてばっかだから、虎も嫌になって家出しちゃったんじゃねえか? もう他所の子になっちゃってるかもなー」
 そうやって厚兄さんにからかわれることには慣れていました。僕が泣き虫なのは事実だし、僕が虎ならもっと頼りがいのある人を飼い主に選ぶでしょう。いつもなら、その一言で僕はもっとべそをかいて、厚兄さんはわたわたしながら誰かに助けを求めにいきます。

 けれど今日の僕は少し違いました。行方不明になったのが一番幼い虎だったからか、それともなかなか見つからない不安からか、厚兄さんの言動が腹立たしく思えたのです。怒りがむくむくと育ち、やがて爆発しました。
「厚兄さんはっ、ちょっと無神経です……!」
 珍しく大きな声を出した僕を、厚兄さんはぽかんとした顔で見つめます。
「な、なんだよ……単なる冗談だろー?」
「言っていい冗談と悪い冗談があります……! あつ、厚兄さんは、人の気持ちが分からないんだ……っ」
 ぐずぐずと鼻を鳴らしながら叫びます。厚兄さんの表情が徐々に険しくなりますが、僕は決して引きませんでした。臆病で弱気な僕が声を荒げることは滅多になかったけれど、今はやけに強気になる気持ちを抑えられません。
 心臓の音がどきどきと早足で駆けていきます。やがて厚兄さんは「あーそうかよ!」と吐き捨て、むしゃくしゃと石ころを蹴飛ばしてどこかへ行ってしまいました。厚兄さんの後ろ姿が邸の影に消えた途端、虚しさと共に込み上げた涙を堪え、ふたたび虎の捜索にかかります。一人きりは心細いけれど、厚兄さんはきっと戻ってきません。
「どうしよう……」
 軒下を覗き込みながら情けない声を出してしまうのは、虎が見つからないから、という理由だけではありませんでした。

 近頃、本丸に流れる空気はお世辞にも良いとは言えません。それもこれも、三日月さんと同田貫さんの仲が険悪になってしまったのが原因でした。手入れ部屋で言い争っていたあの日の翌日から、二人はかれこれ十日以上会話をしていないようです。それどころか、碌に目を合わせようともしないのです。
 二人が喧嘩をした、という噂はまたたく間に広がりました。あれだけ傍にいた人たちがいきなり距離を取り始めれば当然です。
 朝餉や内番で鉢合わせるたび、二人の間に漂う重苦しい空気は周りにも伝染し、当事者を除く刀剣すべてが居心地の悪さを感じているようでした。たとえば仲違いしたのを理由に二人が仕事を疎かにしていたとしたら、主様に諌めてもらうことも可能です。そうではないから性質が悪いのだ、と、へし切さんが嘆いていたのは三日ほど前のことでしょうか。
 ただでさえそんな状態なのに、更に僕と厚兄さんまで喧嘩してしまうなんて。引っ込んだはずの涙がじわりと睫毛を濡らします。

 空がうっすらと橙色に染まっていく中、めそめそと虎を探していると、背後から「おい」と低い声が響きました。反射的に振り返った先にいたのは同田貫さんで、そしてその腕の中には一匹の虎が抱かれています。僕の探していた子です。慌てて駆け寄れば、同田貫さんは「俺の部屋ん中で丸まって寝てたぜ」と溜め息を吐き、欠伸をこぼす虎を僕の頭の上に乗せてくれました。
「そろそろ夕餉の時間だろ、早く邸ん中戻れ」
「あ……ま、待ってください!」
 きっと用件はそれだけだったのでしょう、すぐさま踵を返した同田貫さんを呼び止めると、怪訝な表情で僕を振り返ります。咄嗟に声をかけたは良いものの、何を口にしたいのかは自分でもよく分かりませんでした。虎を見つけてくれてありがとうございます、とか、ただお礼を言いたかっただけなのかもしれません。
 けれど、ここのところ同田貫さんに話しかけられずじまいだった僕にとって、これは三日月さんとの喧嘩について問う、またとない好機でもありました。とは言え関係のない僕が踏み込んでもいいものか、と考え始めると、唇が躊躇います。
「……? なんだよ、腹でもいてぇのか」
 俯いたまま、ぐずぐずしているのを不審に思ったのか、同田貫さんは膝を折り僕の顔を覗き込みました。
 自分の気持ちを言葉にするのがあまり得意ではない僕ですが、そのかわり考えていることが顔に出やすいのだそうです。だから同田貫さんは僕とお話するとき、必ず僕の顔をまっすぐ見つめてくれます。僕の気持ちを逃がさないように、言いたいことを最後まできちんと伝えられるように、心に耳を傾け促してくれる同田貫さんが僕は大好きでした。
 いつもならその優しさが嬉しいのですが、今は僕の気持ちを迷わせます。三日月さんとのことを聞いたせいで、目の前にある同田貫さんの表情が曇るところは見たくありません。それに、色恋沙汰に首を突っ込むのは野暮である、と加州さんのお部屋で読んだ絵巻物にも書いてありました。二人の喧嘩について噂をしながらも、誰もが決して核心に触れようとしないのはつまりそういうことなのです。
「あ、の……」
 ぎゅっと服の裾を握って、僕は目を逸らすことを選びました。
「あの、なんでもないです……っ! ごはん、行きましょうっ」
「おい、五虎退?」
 誤魔化すみたいに笑って、同田貫さんの固い手のひらを引っ張ります。珍しく強引な僕に面食らった表情の同田貫さんは、眉を顰めて僕を引き止めますが、食事当番である蜻蛉切さんの呼び声が広間の辺りから聴こえてきたことで、話はうやむやなまま夕餉の席へと向かったのです。


 しかし、その選択も間違いだったのかもしれません。
 広間に足を踏み入れるなり、僕が酷く後悔したのは、そこに三日月さんの姿があったからです。
 ちょうど僕たちの方に顔を向ける形で膳をつつきながら、三日月さんはこちらを一瞥します。同田貫さんの表情が強張ったことに気付いた僕は、三日月さんの視界から逃れるように端の席を選びました。同田貫さんもまた、僕の隣に腰を下ろします。
 遠征や戦で邸を離れている刀剣を除く、約十数人がこの広間に集まっていました。膳は横二列に並べられ、列と列の間には四尺ほどの空間が取られています。どちらも広間の中心を向き、反対の列に座る刀剣の顔がしっかりと見える形になっているのですが、今ばかりはその見通しの良さを恨まずにはいられません。互いに左右の両端に近い位置に座っているため、意識しなければ三日月さんの姿が視界に入り込むことはありませんが、やはり同田貫さんは浮かない顔で汁椀を傾けています。僕たちが入ってきたときは賑やかだった室内が、どことなく重い空気に包まれているのも原因かもしれません。

「お、おさかな、美味しいですね……っ」
「おう」
 どうにか空気を変えようと明るく話しかけますが、同田貫さんは言葉少なに頷くばかりです。膳だけを見据えて食事を掻き込んでいるのは、一刻も早くここから立ち去りたいという気持ちの現れでしょうか。何度か似たようなやりとりを繰り返し、それでもどうにもならないと気付いた僕は、おとなしくご飯を口に運びます。
 ふと、前方から視線を感じてそちらを見遣ると、厚兄さんが僕をじっと見つめていました。目が合うなり、不機嫌につり上がった眉は更に傾斜を増し、ぷい、と顔を背けられます。そうです、厚兄さんと僕の間にも嫌な空気が漂っているのでした。啜ったお味噌汁がやけにしょっぱいのはどうしてでしょう。悲しい気持ちで食べるご飯は、楽しい気持ちで食べるご飯とはまるで違う味がするのです。

「……そろそろ、あれを許してやったらどうだい」
 俯きがちに咀嚼を繰り返していた僕の耳が、小さな声を拾います。広間に飛び交う声を縫って届いたそれは、向かいの列に座る歌仙さんのものでした。その言葉が隣席の三日月さんに向けたものであるのは明らかで、『あれ』とは同田貫さんを指しているのでしょう。ちらりと同田貫さんを一瞥しますが、歌仙さんの声が聞こえているかどうか、その表情から窺い知ることは叶いません。
「はて、なんのことだ」
「とぼけないでくれよ。どうせあれが無粋な真似でもしたんだろうが、年長者である君が折れる姿勢を見せれば、案外すんなり謝ってくるんじゃないかい?」
 君たちのお陰で邸の中が湿っぽくてたまらないよ。うんざりとした顔で言い放つ歌仙さんはなんて怖いもの知らずなんでしょう。誰もが避けて通る事柄に易々と触れてのけるなんて、と感動にも似た何かが込み上げますが、はたして同田貫さんが同じ室内にいるこの状況で口にすべきことでしょうか。背筋を這い登る妙な緊張感に身震いをし、三日月さんの返答に耳を澄ませます。
「――正国は、物の道理を百遍説いても耳を塞いで知らぬふりをする」
 やがて三日月さんの呟いた言葉は、ぼんやりと予想していた返答とは違い、そして僕には少し難しいものでした。物の道理とは、どういう意味でしょうか。歌仙さんも眉を寄せ、訝しげに三日月さんを見遣ります。
「とんだ臆病者だ」
 三日月さんがぽつりと呟いた途端、同田貫さんの箸が止まりました。かと思えば無言でお茶碗を置き、三日月さんのほうを見向きもせずに広間を出て行ってしまいます。僕のものより一回り大きなお茶碗には、まだ半分ほどご飯が残っていて、小鉢に至っては手付かずです。やっぱり歌仙さんと三日月さんの会話は聴こえていたんだ、と青ざめた僕は、慌ててその後姿を追いかけました。

 出て行って幾らも経っていないのに、続く廊下の先に同田貫さんの姿はありません。すっかり陽が落ち暗くなった辺りを見回しながら、無人の廊下を当てもなく進んでいると、手入れ部屋の戸が半端に開いているのが目に留まります。もしや、と恐る恐る覗いてみれば案の定そこには同田貫さんの姿があり、だらしなく壁に凭れしゃがみこんでいるのが分かりました。
 僕が部屋に足を踏み入れても、同田貫さんは何も言いません。灯りのない室内は濃い闇に包まれていて、互いの表情を読むことも困難です。
 浮かび上がる輪郭を辿り、同田貫さんの前に立ちます。同田貫さんは背の大きい人ではありませんが、僕よりはずっと大きな人でもあったので、こんな風につむじを見下ろす体勢は新鮮でした。なんとなく、今ならなんでも口に出来るような気がします。
「同田貫さんは……三日月さんのこと、嫌いになっちゃったんですか……?」
 本当は夕餉の前に聞こうと思っていたその問いを、勇気を振り絞って投げかけます。

 あの夜、同田貫さんは三日月さんにひどく怒っていました。ただ庇われただけでどうしてそんなにも、と不思議ですが、僕はその現場に直接立ち合ってはいません。もしかしたら同田貫さんの逆鱗に触れるような出来事があったのかもしれませんし、ただ二人の会話を耳にしただけの僕が一概にどうこうと言えないのです。
 けれど、同田貫さんがこの場所で吐き捨てた言葉は、決して恋人に贈るようなものではないということだけは僕にも分かります。
 僕たちは履いて捨てるほどいるのだと、駄目になったら捨ててしまえばいい、代わりを連れてくればいい、と。同田貫さんはそう言いました。たしかに、それは事実なのかもしれません。だけど僕がその言葉に釈然としないものを感じ、胸がじくじくと痛むように、きっと三日月さんの胸にも鋭い棘が突き刺さっています。
 僕は乱暴に見えて実は優しい同田貫さんが好きです。僕とお話をするときは必ず目線の高さを合わせてくれて、僕の目をまっすぐに見てくれる同田貫さんが好きです。泣き虫で弱虫な僕の鍛練に根気強く付き合ってくれて、戦でその成果を発揮できたと喜ぶ僕をぶっきらぼうに褒めてくれる同田貫さんが大好きです。

 だから僕は気付いています。同田貫さんはあたたかい言葉や、他人を笑顔にさせる言葉を知っている人です。そしてあたたかい言葉を知っている人は、他人を傷付ける言葉も知っている人です。
「……あっちの方が俺に愛想つかしたんじゃねぇか。最近、ずっとそんな顔してるしな」
 徐々に暗闇に慣れていく瞳が、視界に映る影をはっきりと浮き立たせていきます。
 感情を一切排除したような冷たい声で同田貫さんは言いました。それは僕の望んだ返答ではなかったけれど、最後に添えられた一言が三日月さんに対する気持ちを物語っています。僕たちが気付かないところで、同田貫さんは三日月さんを視界に捉え見つめていたのです。目を逸らし、顔を見るのも嫌だって態度を取りながら、その実いつも気にしていたのでしょう。

 じゃあどうして、三日月さんの気持ちを突っぱねるようなことを言ったんですか。
 そんな言葉が喉元に込み上げますが、様々な感情が錯綜して声を阻みます。もしかしたら、三日月さんを自分に重ねているのかもしれません。息苦しいあの夜を思い出し、同田貫さんの吐き捨てた言葉たちを頭に並べていくと、僕はたまらなく悲しい気持ちになるのです。僕のそれは決して恋ではなかったけれど、三日月さんが同田貫さんを大好きであるのと同じように、僕もまた同田貫さんを大好きでした。だから、悲しいのです。
「……使い捨てなんて、いやです。同田貫さんを好きって思う気持ちも、ぜんぶ、ぜんぶ無駄なものみたいに捨てられちゃうなんて、そんなの」
 つっかえながら声になっていく言葉を、それ以上口にすることは出来ませんでした。
 僕たちに代わりがいるのは事実かもしれないけれど、それでもやっぱり嫌なのです。それがたとえ自分だとしても、誰かの代わりにはなりたくないって思うのは可笑しなことでしょうか。捨てられたくないって駄々を捏ねるのはいけないことでしょうか。

 暗い部屋の中、まばたきするたびに同田貫さんの瞳は星のように光ります。
 人間の模造品な僕たちにも、心はありました。同田貫さんは僕たちの心が鉄で出来ているのだと言います。でも僕は、目の前の同田貫さんを見ていると気になって仕方がないのです。冷たく、硬質な鉄で作られた心を持つはずの同田貫さんに、胸の奥で問いかけます。

 本当に心が鉄で出来ているなら、どうしてあなたはそんなにも悲しげにまぶたを伏せるんでしょう?
 僕がその問いを声にすることはありません。無論、答えが返ってくることもありませんでした。