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 その夜、どう返すべきかと考えあぐねていた文にようやく筆を滑らせた。

『叶う見込みのない恋なんて不毛だとは思わないのか』

 顔も知らぬ誰かに向けたその一文は、同田貫自身にも深く突き刺さる、残忍なものだった。
 向けられた恋慕を真っ向から否定する、そんな内容のみを記して、同田貫は所定の位置へと文を置く。
 ずるずると当たり障りのない言葉を返し続けて期待させることと、縋る手を振り払い一思いに断ち切ること。どちらがより残酷なのだろうか。布団の中でぐるぐると考えていたけれど、これ以上頭を回すと知恵熱が出そうだ、と嘆息する。
 物思いに耽るなんて慣れないことばかりしているせいか、このところどうも調子が出ない。やはり、恋など良いものではないのだと痛感し、固く瞑った目蓋の裏にちらつく三日月の影を夢で塗りつぶした。

 翌朝、文は部屋の前から姿を消していたが、次の日も、そのまた次の日も、返信が届くことはなかった。


-


「――おてぎね」
 縦にばかり大きなその男が今にも脱ぎ捨てんとしている深緑の衣服を見据え、胸元の刺繍を何気なく読み上げる。部屋の戸口にだらしなく凭れた同田貫は、その男――御手杵の支度が終わるのを待ち構えているところだった。
「え? 呼んだか?」
 ぼそりと呟いたそれに、御手杵はすかさず反応を示した。目つきが悪く、凶悪と称されがちな同田貫とは対照的に、人懐っこい犬のような顔立ちを持つ御手杵はその丸い瞳をきょとんとさせている。
「読んだんだよ」
「……んー? 呼んだんだろ? なに?」
「だぁから、読んだんだっての。どうでもいいから早く着替えちまえよ。お前が寝坊したせいでただでさえ遅れてんだからさぁ、たらたらしてっと陽が暮れちまうぞ」
「なんだよー、あと上だけだからちょっと待ってくれって」
 欠伸を噛み殺しながら言えば、御手杵はどこか釈然としない表情を浮かべながらもあたふたと手を動かす。
 城の警備という名目で、同田貫の部隊はこの本丸から遥か南方に位置する栄えた町へ向かうよう指示を受けていた。予定では今頃馬を走らせているはずだったのに、と白んだ空を渋い顔で見上げる。

 今朝もやはり文は返ってこなかった。正直もうそれほど期待はしていない。たかだか数回のやりとりとは言え、あれだけ律儀に返信を寄越していた相手から五日も音沙汰がないのはつまりそういうことだ。叶わない恋、不毛、とまで言われて、これ以上続けることは無意味だと思ったのかもしれないし、もしかしたら深く傷付いているのかもしれない。
 同田貫とて良心の呵責を感じない訳ではないが、自身の行為が間違っているとは思っていなかった。どれだけやりとりを続けたところで同田貫の中でのそれは冷やかし以上にはなり得なかったし、誰ともつかぬ相手の想いに応えてやることは出来ない。いや、三日月へと向かう恋慕が消えたなら、応えるという選択肢もいつか浮上してくるのだろうか。そんな考えが頭を過ぎるが、すぐにかぶりを振る。この胸を燻る感情が消える日など、訪れるとは到底思えないのだ。
 あの文を目にしたことで、恋心に終止符を打てたのだ、きっと。
 根拠のない結論に深く頷く同田貫だったが、しこりのように胸につかえる懸念を取り払うことは出来なかった。

「やー悪い悪い、待たせたな。そろそろ行くか」
「おし、ちゃちゃっと行って、ちゃっちゃと終わらせちまおうぜ」
 ようやく身なりを整えた御手杵と連れ立って、馬小屋へと歩を進める。今頃、部隊の面々は待ちくたびれていることだろうと足を速めたところで、「たぬき、たぬき」と背後から響いた聴き覚えのあるその声に肩を震わせた。咄嗟に振り向いた先には案の定三日月の姿がある。帰路につく夕刻まで顔を合わせることはないだろうと踏んでいただけに、その遭遇は気持ちを昂ぶらせた。
「道中気をつけて」
 短く投げかけられただけで、同田貫の心は綻ぶ。込み上げるものを堪えながら、「報酬しこたま持って帰ってくるぜ」と嘯いて踵を返した。戦ではないから、と少しだけだらけていた背筋をしゃんと伸ばす。
「……同田貫ってさ、三日月さんと話してるときすげえ良い顔するのな」
 二人のやりとりを何気なく見つめていた御手杵が突然そんなことを言い出したものだから、同田貫は思わず眉を顰める。
「なんだよ良い顔って。べっつにいつもと変わんねえだろ」
「いや、なんか分かるんだって。なんつーのかな、柔らかいって言うか、嬉しそうって言うか……」
「……くだらねえこと言ってねえで、早く歩けっての」
 顎に手を当て推察する御手杵に、呆れたといわんばかりの冷ややかな視線を送り、はぐらかすようにその背を叩く。まさか、鈍感な御手杵すら察してしまうほど顔に出ているのだろうか。緩んだ頬をぐっと引き上げて険しい表情を作る同田貫だが、滲み出る高揚感を完全に抑え込むことは出来ず、二人の到着を今か今かと待ち構えていた乱に「ねぇ、何か良いことでもあったの?」と訝しがられる始末だった。


 いつか共に戦場に赴いたあのちぐはぐな面子が再び揃うこととなった今回の遠征は、結論から言うと見事成功に終わった。
 事前の打ち合わせ通り、同田貫は五虎退と共に正門付近の警備に務めた。よもや血走った目の武士――らしき複数人が斬り込んでくるとは予想だにしなかったが、その際に役立ったのが学んで間もない文字だった。
 必要に駆られる状況と言うのがこうも早々に訪れるとは、どこか他人事のように感心しながら、植え込みの影へと身を潜めた五虎退に無言の指示を下したことが功を奏し、事態は極めて速やかに収束したのだ。
 城の主と思しき――恐らく審神者と何らかの関わりを持ったその人が、件の不審な武士を捕らえたことをしきりに褒め称えるものだから、同田貫はどこか誇らしかった。自分を通して、読み書きの手解きをしてくれた張本人である三日月が認められたような、そんな気がしたからだ。
 そうして同田貫達は充足感と共に帰路に着き、途中、休息を兼ねて立ち寄ったこの茶屋で喉の渇きと空腹を満たしている。

「あ……あの、同田貫、さん。これ……一つどうぞ」
 言って、同田貫の前に小ぶりな柏餅を差し出すのは五虎退だ。
 隣席に腰を下ろしたことは勿論、こちらの顔色を窺うような、おどおどとした視線を寄越すばかりの五虎退が自主的に声を掛けてくるなんて、初めてのことかもしれない。意外に思いながらも、勇気を振り絞って――というその表情に気圧されるように受け取れば、五虎退はその真っ白な頬をほっと綻ばせた。行儀良く揃えた足先が可愛らしく揺れているところを見ると、機嫌が上々だと分かる。
 弾力のある柏餅を食んで「うめぇな」と誰にともなしに呟く同田貫に、五虎退は「はい……っ」と上擦った相槌と共に微笑んだ。城を出る直前、あの騒動の際に同田貫の指示を的確に捉え行動してくれたことにちらりと触れ、感謝を示したのをきっかけに、五虎退は少しだけ心を許してくれたらしい。怯えたような表情ばかりを向けられるより、幾分か心地よい。
 滑らかなこしあんを舌で潰し、全身に染み渡るその甘みを堪能する同田貫の傍らでは、江雪が華やかな甘味を三つ、風呂敷に包んでいるところだった。桜色のそれに目を惹かれる。
「それ、なんて言う甘味なんだ?」
「桜餅です。――弟達が、好んで食すので持ち帰ろうかと」
 どこか言い訳めいた江雪の言葉が少し可笑しい。
 その名の通り桜を思わせる色合いと儚さを漂わせるそれを、ふと、三日月にも食べさせてやりたいと思った。
 まだどこかあどけない風貌の娘に声を掛ければ、ほどなくして小箱に詰められた桜餅が同田貫の前に姿を現す。まるで春を切り取ったようだ。季節が変わってしまう前に、まだ花を僅かに残した木を眺めながら食べることにしようと密かに決意する。思い浮かべた景色の中、縁側に腰掛ける同田貫の隣では、三日月が快晴の空を見上げていた。
 桜餅は三つ並んでいたから、その内一つを五虎退に分けてやる。これまでにない満面の笑みを浮かべてそれを頬張る五虎退の頭を、わしわしと掻き混ぜて、穏やかな気持ちで喧騒に耳を傾けていた。


 主への報告を終えたその足で、同田貫は急く気持ちに促されるまま廊下を歩いていた。
 手には桜餅の入った包み、向かう先は三日月の部屋だ。ほんの数刻前まで手合わせで汗を流していたと言うから、きっと今頃は部屋でのんべんだらりと寛いでいるに違いない。明日は同田貫、三日月と共に畑仕事を任されると小耳に挟んだ。手早く済ませて、陽の高い内に甘味を食そう。
 思案を巡らせながら角を曲がったところで、遠く縁側に腰を下ろすその姿を捉えた。傍らには鶴丸の姿もあるが、談笑する二人はまだ同田貫の存在に気付いてはいないようだ。声を掛けようと息を吸い込んだけれど、続く会話がそれを遮った。

「――で? 結局あいつに伝える気はないのか?」
「そうすることでかけがえのない時間を失ってしまうと考えると、つい踏み止まってしまってな。年甲斐もないんだが」
「へえ、驚いたな。そんな弱気な言葉が出るとは。ま、色恋沙汰に頭を悩ますその姿には叶わないけどな」

 交わされる言葉の意味を理解するまで、やや時間を要した。
 色恋沙汰。揶揄っぽい声が耳鳴りのように響く。
 まさか、と根拠もなくかぶりを振る同田貫だったが、どこか憂いを秘めた三日月の横顔がその言葉を肯定していた。

「……そうだな。これが初恋というものやもしれん」
 続く切なげな声に、同田貫の体は爪先からじんわりと冷えていく。
 にわかには信じ難い事実だった。恋などというものは三日月には縁のないものだと思っていたし、鶴丸が言ったように世俗的な感情に頭を悩ませる姿などこれまで一度たりとも目にしたことはなかった。だが、それも同田貫が知らなかったというだけ、思い込みに過ぎなかったということだ。言質を取った訳でもなし、驚愕すること自体お門違いなのだ。
 頭の中で様々な想いが錯綜し、自分が今どんな気持ちでいるのかすらあやふやだった。気配を悟られぬよう後じさり、通ったばかりの廊下を引き返す。

 体の冷えは顕著で、夕暮れを控えて温かな橙の陽が差し込むこの廊下に、何故こんなにも寒々しい風が吹き込んでいるのだろうかと不思議に思った。それなのに心臓は痛いほど脈打って、燃えるように熱い。滅茶苦茶に掻き毟りたくてたまらなかった。
 相変わらず埃っぽい私室に辿りつき、同田貫は全身を襲う奇妙な感覚の答えをようやく見つけた。
 畳の上に無造作に重ねたままの恋文が、半端に開いたままの戸口から入り込む風にひらひらと揺れている。

『恋が胸に込み上げると、呼吸もままならない切なさに飲まれて、心を掻き毟らずにはいられないのです』

 胸に込み上げる恋が行き場をなくしたまま、いま春が終わろうとしていた。


-


 菓子ようじが桜色を割ると、歪な断面からつぶあんが覗く。
 畑仕事の名残を所々に纏わせた二人は、言葉少なに咀嚼を繰り返していた。
「たぬきや、俺を気遣うことはない。読み書きを教える時間くらい、いくらでも――」
「あー……別に、気遣ってるとかそういうんじゃねえからさ。……もう良いんだよ」
「――そうか。いや、無理強いするつもりはないんだが」
 遮る同田貫の語気は決して強くはなかったが、ぶっきらぼうな声は拒絶を前面に押し出している。三日月はその顔に苦いものを浮かべ、口を噤んだ。
 明日以降、自分の為に時間を割く必要はない。充分な知識は得られたから。
 三日月にそう告げたのはこの縁側に腰掛けてすぐ、他愛ない話を一つ二つ交わした直後だった。先ほどまでの快晴が嘘のように空が翳って、ぽつりぽつりと雨が降り始めたから、昨夜から考えていたそのことを伝えるには丁度良いのではないか。なんとなく、そう思って口を開いたのだ。
 三日月はやはり同田貫の意思を尊重する男だ。何故、とその顔には書いてあるようだったが、深く追求することも強引に引き止めることもない。

 初恋。
 昨日、三日月が口にしたその言葉がふと頭に過ぎる。
 初恋、だった。同田貫が三日月に対して抱く気持ちもまた、初恋だったのだ。あまりにも違う二人のそれを一緒くたにすべきではないのかもしれないけれど、他に適当な言葉は思いつかない。

「すぐに止めば良いが、もしも夜通し降ったらあれもすべて散ってしまうな」
 雨に打たれる桜の花を見つめ、三日月が春の終わりを惜しんでいる。何か返さなければ、と唇を迷わせる同田貫だが、思い浮かぶ返答のそのどれもが適当ではない気がして、菓子ようじを口に運んだ。
 桜餅というこの愛らしい外見の甘味は、酷く甘ったるいかと思いきや意外にも塩気が強く、一口目を舌に乗せたときはその不可解さに戸惑った。慣れてしまえばどうということはないのだが、今は胸焼けするくらい甘い菓子を食べたい気分だったから、本当はこれ以上手を付けたくない。だが気詰まりな沈黙を覆す術を同田貫は持たず、黙々と口を動かすほかないのだ。

 最後の一口をゆっくりと嚥下して、喉に残るざらつきを茶で洗い流す。
 春を模すのは外見だけで良いのに。そう、漠然した苛立ちを覚えたのは、後引く塩辛さが恋――いや、春の終わりを表しているように思えたからだ。
 誰かを想い胸を焦がす三日月の横顔はとても美しくて、まだ記憶に新しいその姿が目蓋の裏に焼きついて離れない。相手が誰であるとか、成就するしないとか、同田貫にとっては全部どうでもよくて、ただ三日月のそんな表情をもう二度と見たくはなかった。
 だから、もう幸福な時間に溺れることはやめようと思ったのだ。喉元まで込み上げてきている恋慕をいつかみっともなく吐き出してしまいそうで、そうしたら何気なく会話を交わせる二人の関係すら終わってしまいそうだから。

(――そういや、あの文の主も似たようなこと書いてたな)
 そして三日月もだ。恋とやらに悩まされると皆同じような思考回路に陥ってしまうのだろうか。奇妙な符合が可笑しくて、自嘲を孕んだ笑みを零す。
 他者を惹き付けて止まず、思慮深くもあるこの三日月宗近という男に恋心を打ち明けられたとして、首を横に振る輩がどれだけいるのだろう。同田貫とは訳が違うのではないか。ぼんやりと考えていたら、舌の根がむずむずと疼いて、気付いたときにはぽろりと言葉が溢れていた。

「告白、しねえのか」
 感情の篭らないそれに、三日月が怪訝な顔をしてみせた。形の良い眉がひくりと震えて、その瞳に僅かな動揺が窺える。
「――はて、唐突になんの話だ」
「昨日さぁ、聞いちまったんだよ。あんたと鶴丸のじいさんが話してるとこ。あんたみたいな男も惚れた腫れたに振り回されたりするって、悪いけどなんか笑っちまうよな。……無縁なんだろうと勝手に、――勝手に思ってたから」
「……同田貫、どうした」
 やけに饒舌な同田貫の腕を筋ばった指が掴んだ。力任せに振り払ってしまいたい衝動を抑え、神妙な面持ちでこちらを見据える三日月に視線を合わせる。その双眸に映りこむ同田貫は随分と酷い表情をしていた。顔色まで悪く見えるのはきっと錯覚なのだろうけど、そう思わせるだけの陰鬱な雰囲気を纏っている。
「同田貫」
 もう一度、三日月が唇を震わせる。いつもは「たぬき、たぬき」と間の抜けた愛称しか口にしない癖に、こういうときだけ真剣な声で名を呼ぶのはずるい。
 三日月は同田貫の動揺だとか焦燥だとかに気付いているのだ。心を持っているのだから、なんとなく饒舌になるときだってあるだろう、なんとなく顔色の優れないときだってあるだろう。気まぐれな変化だとぼんやり察するに留めて、たまには見過ごして放り出してくれれば良いものを――本当に、目敏くて嫌になる。けれど同時に火照った心臓が痛いほど疼くのだ。だって同田貫は三日月のそういう、明敏で温かな人柄に恋をしてしまったのだから

「なあ、恋慕とかそういうのってさ、堪えてんのしんどいだろ」
 搾り出すような声で呟く。今、自分がどんな表情をしているのかは想像に難くない。何もかもを見透かすような真摯なまなざしから逃げるように、時折り足先を掠める雨だれを見つめるその顔は酷く情けなく歪んでいるに決まっている。自らの想いをぶつけて砕ける勇気もないくせに、喉元まで込み上げているこんな言葉を口にするのは滑稽なのだろうか。疑問を抱きながら、同田貫は僅かに曇った三日月の瞳を見据える。

「あんたならきっと、大丈夫だ」
 恋が叶わないかもしれないなんて不安に思う必要はないのだと、出しうる限りの力強い声で告げた瞬間、三日月はその双眸になにともつかぬ複雑な色を浮かべた。
 上手く表情は作れているだろうか。こういうとき、やはり人の体と言うのは不便であると実感する。刀の姿であれば、喜怒哀楽や繊細な感情を相手に悟られたりはしない。同田貫は何かを考えるということがつくづく苦手だ。もしも得意であれば、傷付いたような表情を笑顔で塗りつぶすことも容易なはずなのに。
 三日月は同田貫とは正反対だ。今だって三日月の表情は固いなにかに覆われていて、何を思っているのか、どんな気持ちでいるのか、同田貫には見抜くことが出来ない。こんなにも近い場所にいるのに、その胸裏などまるで推し量れないのだ。

「――そうだな。やはり、自分の手で散らすべきだ」
 ふっとはにかんだ三日月は、仄かな決意を滲ませそう呟くと、同田貫の元から身を引いた。その指が触れていた感触だけが腕に残る。いつのまにか倒れていた湯呑みや皿の類を手早くまとめ、「そのままでは体が冷える。部屋に戻ったほうがいいな」と気遣いを見せた三日月の背が廊下の奥に消えていく。
 その後姿を見つめ、随分してからのろのろと私室へ向かう。足先はいつのまにかぐっしょりと濡れていて、廊下と言わず畳までをも汚したけれど、今の同田貫にはそれを気に掛ける心の余裕などなかった。
 終わったのだ。春は、恋は、もう。


 屍のように転がって、しとしとと降り続ける雨の音をひたすら耳をすませる。悄然とした想いを洗い流してはくれないだろうかと淡い期待を抱いていたのだ。その内に陽は暮れ、灯りのともらない室内は徐々に暗澹としていくが、目蓋を閉じても不思議と睡魔は訪れなかった。途中、夕餉の支度が出来たと御手杵が訪ねてきたが、眠ったふりでやり過ごす。
 どっぷりと夜が更けた頃、雨の音が止んだ。
 導かれるように縁側に足を運んで、裸足のままぬかるんだ地面に降り立つと、真っ黒に汚れた桜の花びらが辺りに散乱しているのが見て取れる。木は悲しげに涙をしたたらせるばかりで、花冠は一つ残らず散り果てていた。
 終わりはこんなにもあっけない。嵐に見舞われたわけでもないのに、ほろほろと容易く散ってしまうのが桜だ。真っ青な境界を溶かすように回遊していたあの花びらはもうない。

 じっとりと濡れそぼる幹に背中を預け、空に色濃くかかる雨雲を見上げる。
 『雲』、『雨』、そして『雨雲』。
 いつかこの場所でした言葉遊びを思い出して、じりじりと胸が痛んだ。もう二人がそんな他愛のない行為に時間を費やし、笑みを零すことはないだろう。いや、望めば三日月はいくらでもそういったささやかな幸福を与えてくれるのだろうけど、同田貫が要求することはない。だってその時間はあんまりにも満ち足りていて、心の箍が外れてしまう。また、恋が込み上げて掻き毟らずにはいられなくなる。

 後悔だとか未練だとかをぐるぐると掻き混ぜながら、同田貫はどれくらいの時間、その湿った風の中に佇んでいただろう。
 雲の切れ間から白んだ光が覗く。
 眉のように撓った今夜の月は、奇しくも三日月だった。奇妙な偶然に苦笑が滲む。いい加減部屋に戻るべきかと預けた体を起こし、ふと、その場にしゃがみこんだ。汚れるのも構わず、水っぽい地面に指を這わせる。
 『三日月』
 刻んだそれを見下ろし、手を伸ばす。広げた手のひらに三日月の文字は容易く接地し、ぬるいその温度を同田貫に伝えてくれた。ひんやりしているとばかり思っていたから拍子抜けしてしまって、もしかしたら三日月も――地面に現れた紛い物ではない、三日月宗近というその男も、触れてみたら想像したものとは違う温度を持っているのではないかと思った。同田貫が信じていた『三日月は恋などしない』という事実が、まったくの思い込みであったように。

 きっと同田貫はこれからずっと、気が遠くなるほどの年月、三日月に対する恋慕を燻らせたまま生きるのだろう。根拠のない想像に過ぎないけれど、悪い予感というのは意外に当たるのだ。最後には三日月に恋をした事実すら嫌になって、与えられた数え切れない幸福を悪夢に塗り替えてしまうかもしれない。
果たして、同田貫の恋は本当に終わったと言えるのだろうか。
 いや、これだけ強い未練を残し、夢想する未来に三日月の影をちらつかせておいて、終わっただなんて無理があるだろう。そんなの結局は自分を上手く言いくるめているだけだ。胸の底ではまだ、恋心が悪足掻きを続けている。

 三日月が去り際に口走った、「自分の手で散らすべきだ」という言葉が頭の中でこだまする。
 大丈夫だ、と発破をかけた張本人がやらずして逃げるなど言語道断だ。堪え押しとどめた恋が心の中で腐ってしまう前に、自分の手で散らす。散らさなくてはならない。決着を付けたいのなら、それを選択しなければいつまでも終わらない気がするのだ。後悔しない自信などこれっぽっちもないけれど、しないで後悔するより、して後悔する方がいくらか寝覚めがいい。

「っあー……くそ。もう、腹括るしかねえだろうが……っ」
 未だぐるぐると思い悩む自身を叱咤するように、同田貫はその頬を両手で思い切り叩きつける。手のひらにべったりと付着した汚れが顔中に飛び散って酷い有様だろうが、それぐらい泥臭いほうが自分には似合う。逡巡は消えない。だが、たとえ泥にまみれて転がることとなっても、三日月との関係が壊れてしまっても、それで良いのだといつかは納得出来るような気がしていた。気持ちを殺したまま過ごす『幸福な時間』なんて、遅かれ早かれ破綻してしまう。だったら、潔く死にに行くくらいで丁度良い。

 夜空に昇る三日月の淡い光が、少しずつ雲を掻き分けていく。とても手は届かないほど遠い場所にあるそれは、冷えた同田貫の体をじんわりと温めてくれてくれるようだった。

 部屋へと戻ると、同田貫はすかさず紙切れと筆を引っ張りだし、軽快な手つきで書をしたためる。

『ちゃんと終わらせることにしたんだ。なあ、今度こそお前の名前を教えてくれないか』

 返事を貰える保証はない。名前を教えてくれる保証だってなかった。しかし、この顔も知らない誰かも同田貫と同じで、ずるずると煮え切らない想いを引きずり続けているのではないだろうか。その文に綴られた言葉に恋を気付かされ、どうしても臆病になってしまうその気持ちに同田貫が酷く共感したように、与えられた『不毛』の一言では燻る想いを片付けきれずにいるのではないだろうか。
 もしも名前を教えてくれたなら、まっすぐに向き合いたいと思った。やはり同田貫の行為は残酷なのかもしれないけれど、どうすべきかを最後に決めるのは文の主である当人だ。二人はなんだか似ているから、最後に選ぶ答えはなんとなく分かっていた。

 文を部屋の前に置き、音を立てぬよう静かに戸を閉める。
 やっぱり目は冴えていて、このまま起きていれば文の主の正体を容易く掴めるかもしれないとよからぬ考えが過ぎる。それを掻き消すように、重く目蓋を伏せた。
 眠りに落ちるまでの長い時間、同田貫はとりとめもないことを考えていた。
 三日月は今頃なにをしているだろう、桜餅の感想を聞きそびれていたが気に入っただろうか、もしそうならあの茶屋の名前を教えて、それかもっと大きな茶屋で新しい甘味を探しても良い――。思い浮かぶのは三日月のことばかりで、ああどうしても恋慕は枯れぬものなのだと苦笑する。
 明日、どんな言葉で想いを伝えようか。散りざまは美しいほうが良いと誰かが言っていたけれど、それが誰であるのかをはっきりと思い出す前に、意識はゆっくりと沈んでいく。
 
 目覚めたとき、文はまだ戸口の前に残っていて落胆したが、朝餉を終えて戻ってきたときにはきちんとなくなっていた。安堵の溜め息を漏らした同田貫は、どうか返事が届きますようにと柄にもなく願いを込めた。



 同田貫の手が空いたのは正午を過ぎた頃だった。
 気もそぞろな同田貫に、手合わせの相手であるへし切は辛辣な言葉を投げかけてきたが、冗長な説教など聴いてはいられないのでいくらも経たないうちに逃げた。背後で主命がどうのと騒いでいたが知ったことではない。
 きょろきょろと辺りを見回して、三日月の姿を探す。刀剣の行動を逐一把握している主はあいにく短刀と共に万屋へと向かったところで、居場所はおろか本日与えられているであろう任務を尋ねることすら出来ない。広大な面積を有するこの邸をあてもなく探すしかないということだ。
 まずは三日月の私室をあたろうかと歩を進める同田貫の背に、陽気な声がかかった。

「よお、こんなところでなにしてるんだ? 長谷部のやつが庭先でお前の名前叫んでたぞ」
 振り向いた先では鶴丸が悪戯っぽい笑みを浮かべている。そういえばこの男は三日月と親しかったなと思い至り、今にも踵を返さんとしていた体を押し留める。

「三日月のじいさん探してんだ。あんた、あの人がどこにいるか知らねえか」
「ああ、それなら同田貫の部屋のすぐ目の前にある縁側。あの辺りで茶を啜ってたな」
「茶……。好きだなあの人も。悪いな、恩に着るぜ」
 何故わざわざ同田貫の部屋の前で、と疑問は残るが、居場所が知れただけよしとしよう。忙しなく床を蹴り、目的の場所へと向かおうとしたところ、慌てた声で「ちょっと待ってくれ!」と鶴丸に再び引き止められる。怪訝な表情の同田貫に、あー、とか、うー、とか不明瞭な呻き声を散々上げた鶴丸は、意を決したように腕を組み口を開く。

「そのな、いらんことだとは思うんだが――お手柔らかに頼む」
「――はぁ? 突然なんの話だよ」
「ああいや! 俺が口を挟むべきことじゃないのは重々承知してるんだがなあ、ただあまりにも気落ちしているというかなんというか……。とにかくそういうことだ、よろしく頼んだ!」
 まくしたてるように言って、すぐさま去っていく鶴丸の後姿を呆気に取られ見送る。主語がどこにも見当たらないその言葉を反芻し、首を傾げながらも気を取り直して足を進めた。鶴丸はどうも掴めないというか、良い意味でも悪い意味でも不可解な言動や行動が多すぎる。先ほどの発言も真面目に考えるだけ無駄だろうかと思案を巡らせていると、あっという間に同田貫の部屋の目へと辿りついた。
 しかし縁側には急須と湯呑みが置かれているのみで三日月の姿はなく、視線をふらふらと彷徨わせる。

 すると目当ての人物はすぐに見つかった。桜の木の下だ。こちらに背を向け、すっかり色を失ったその木を見上げている。普段ならば悠然とした空気を纏っているはずの三日月の背中が、今日は何故だか所在なさげに見えて、行き場を失い立ち尽くしているという言葉が似合うような、そんな雰囲気を醸し出していた。
 どくどくと早まっていく鼓動を鎮めるように大きく深呼吸をして、三日月の元へ足を運ぶ。数歩も進めば背中にぶつかるというところまでやってきたは良いものの、なんと声を掛けるべきかと唇を迷わせる同田貫の葛藤を知ってか知らずか、口火を切ったのは三日月だった。

「春が跡形もなく消えていく。儚いな」
 短い季節の終わりを憂いているのか、はたまた三日月の言う春というのは恋であるのか、同田貫には分かりかねた。
「だが、いつまでも名残惜しんでいても仕方がない。なあ、たぬきや。そうだろう」
 どこか切実な声音に、やはり三日月は恋について語っているのだと察しがついた。
 もう、件の想い人に気持ちを伝えた後なのだろうか。あるいは、ここで決意を固めていたのだろうか。表情を見ることすら叶わない今、それを確かめる術はなかったけれど、どちらにせよ同田貫がすることはたった一つだ。昨夜、この場所でもう決して逃げないと決めたのだから。

「――ああ、気が合うな。俺も昨日、ちょうどあんたと同じ答えを出したとこなんだ。――そのまま、聞いてくれるか」
  その瞳に見据えられたら声を失ってしまいそうで、ずるいとは思いつつ三日月の脇に垂れた着物の袖をつまんだ。顔は見えずとも、どこか一辺でも触れていれば想いの片鱗を知ってもらえるかもしれないと期待したのだ。そんなはずはないのに、だ。
 散々頭を悩ませたけれど、この募る想いを纏め上げることは難しく、どんな言葉や表現を用いたところで到底同田貫の感情は伝わらないのでは危惧していた。飾り立てれば飾り立てるほど陳腐になっていく気がして、何故上手く形に出来ないのだろうという焦燥は未だに消えていない。
 だからいっそ、まっすぐに気持ちを伝えようと思った。
 喉がやけに渇いて、体中がカッと火照る。深く呼吸を繰り返すその感覚すらどこか他人のもののように思えたけれど、意を決して口を開く。

「俺、あんたが好きだ」

 たったそれだけの短い告白。
 なんの変哲もない心情の吐露に、同田貫の胸は激しい鼓動を繰り返す。言い切ったら足早にその場を去ろうだとか、様々な考えを巡らせていたはずなのに体は動かなかった。三日月の袖を掴んだまま、気の抜けた顔で立ち尽くすほかない。
 伝えたのだ。この口で、しっかりと。
 堰を切って溢れ出しそうな想いを言葉に乗せて、贈ることが出来た。どれだけ伝わったかは分からないけれど、全身を駆け巡る安堵にも似た喪失感が「これで終わったのだ」と同田貫の肩を叩く。煮詰まった恋をようやく吐き出せたのだと自覚した途端、込み上げてきた寂しい気持ちを悟られぬように、固く握り締めていた袖を離す。三日月に気遣われたくはなかった。何も言わない背中を一瞥し、踵を返す。

「――同田貫」
 その行動を見越していたかのように、三日月がどこか固い声で同田貫を呼び止めた。
 『たぬき』ではない、『同田貫』だ。
 きっと真摯に向き合ってくれるつもりなのだろうと思ったが、三日月の出す答えが分かっている以上、振り返るのは躊躇われた。昨夜よりよほど酷い顔を見せてしまう自信がある。しかし逃げるわけにもいかない、逡巡する同田貫の体を、奇妙な浮遊感が襲う。
「う、わ」
 ぐらりと景色が傾いだかと思えば、同田貫は三日月の胸元に背を預ける形で抱き寄せられていた。状況が掴めず、上方にある三日月の顔を上目に見れば、どこか余裕のない表情が同田貫を見下ろしている。眇められた瞳の中の月が揺れて、いやに綺麗だ。
 自嘲を潜めた小さな笑い声と共に、整った眉が切なげに歪んだ。泣いているみたいなその顔を呆然と見つめる。

「――お互いに、自分のこととなると瞳が曇ってしまうようだな」
 胸に掛かる腕にぐっと力が篭った。逃がさないと言わんばかりのその行動に、困惑した頭はここを離れるべきだと指示を下し、その腕を取り払おうと手を操る。しかし三日月はそれを許さず、より強く同田貫の体を抱き込むばかりだ。密着した背中に、早鐘を打つ心音が生々しく伝わってくる。これは、三日月の心臓から発せられているものなのだろうか。

「最初に文を出したときから、叶わなくともいいと殊勝なことを考えていたんだがな。今だって、自ずから想いを散らす覚悟でここに来た」
 その言葉の意味を理解した瞬間、同田貫はしどろもどろに声を紡いでいた。

「好きなやつがいるって、初恋がって。あんた言ってただろ」
「言ったな、確かに言ったが――。まあ、あれだ。随分遠回りをしてしまったな」
 苦笑が耳たぶを掠め、つむじの辺りにふっと何かが触れたような気がした。
感触の出処を突き止める前に、三日月はその懐から恭しく取り出したものを同田貫に差し出す。見覚えのある、ところどころに墨が染みた紙だった。背筋にぞくぞくと興奮めいたものが走って、込み上げる唾液を飲み干してからそれを開く。
 そこには返事を出せずにいたことへの謝罪と葛藤、そしてどこか気恥ずかしい告白の言葉が綴られていた。しかしなによりも目を惹いたのは最後に記されたその文字だ。

『三日月宗近』
 強く、しなやかな五つの文字が並び、この文――そしてこれまでの文の差出人が三日月であるということを雄弁に物語っていた。

「なんで、黙ってたんだよ」
 力ない声で思わず問いかけるが、理由など聞かずとも明白だった。恋心を打ち明けることでかけがえのない時間を失ってしまうかもしれない恐怖、不安。それらは文にもはっきりと記されていたことだったし、同田貫の心にも深く刻まれている。臆病で保守的な感情だ。
 これだけ近くにいて、喜びを共有して、それでも互いの想いに気付かないなんて愚かだし馬鹿げている。今だって同田貫にはにわかに信じ難い事実で、もしや騙されているのではないかと辺りを見回してしまうほど、その動揺は大きかった。
 体を反転させられ、三日月とまっすぐに向き合う形で引き寄せられた今も、疑念を完全に振り払うことは出来ない。
 けれど、同田貫を見据える双眸に嘘は一つもないように思えた。少しだけ垂れた目尻が情けない、慈しむような視線を一心に送るその瞳。

「たぬき、同田貫。俺はお前が愛おしい」
 余裕などまるで感じられない掠れた声が鼓膜を震わせる。
 同田貫がなにかを応える前に、三日月の唇が額に触れた。少しかさついたそれが重なった場所から、じんわりと熱が広がっていく。三日月の唇は熱かった。思っていたよりずっと火照っていて、柔らかく心地好い。
 いつまでも同田貫を掻き抱いて離れようとしない三日月に、どんな顔をすれば良いのか分からずに視線を迷わせる。

 ふと、三日月の背後に聳える木の枝に、小さな若葉色の芽が出ていることに気付いた。次の春を迎えるため、初夏には新たな芽が生えると聞いたことがある。昨夜の雨が嘘のように陽気な空気に、もしかしたら気が急いてしまったのかもしれないと微笑ましく思う。

 根の這う地面には見慣れない白い蕾がぽつりぽつりと並んで、春から初夏への移り変わりを教えてくれる。
 春を越えた先に訪れる季節は、どんな景色を見せてくれるだろう。今は唇の温度を確かめるだけで精一杯だけれど、やがてそれを当たり前に受け止められるようになったそのときは、二人肩を並べて何もかもが真新しい季節を眺めたい。
 肌を撫ぜる風は、きっとあたたかいだろう。