廊下へと足を踏み出した瞬間、生ぬるい風が同田貫の頬を撫ぜた。
快晴の空をソメイヨシノが舞っている。はらはらと散っていく花びらは、曇天を思わせる黒灰色に身を包んだ同田貫にも淡い色を添えた。鼻先に着地したそれを指先でつまんで、ふうっと息を吹きかける。空に跳ねた花びらは桜色の群れに舞い戻り、ふたたび回遊するのだった。
すっかり春めいてきたこの頃は、暖かな風に乗って色々なものがこの本丸へとやってくる。
思い返せば、同田貫がこの場所に身を置くこととなったのもちょうどこれぐらいの時期だったな、と何気なしに記憶を辿っていると、視界の隅を何かが掠めた。鋭利な造形の紙切れが、狙い定めたかのように足元に落ちる。
反射的に拾ったそれは三角に折り曲げられた紙切れだった。山と谷が交互に接するその形は同田貫の目に奇妙に映ったが、さらに奇妙なのは真っ白な紙に染みた墨の存在だ。
「――……? なんだこれ」
破いてしまわぬよう慎重に紙を広げてみると、そこには無数の文字が踊っていた。しかし同田貫には何が記されているのか、何を意図しているのか理解することは適わない。
同田貫には字の読み書きを学んだ経験はなかった。分かるのは、紙の上を滑るものが墨を介して何かを訴えているということだけだ。
紙が飛んできたと思しき廊下の先を伺い見るが、しんと静まり返ったそこに誰がいる気配もない。
「同田貫! 置いてくぞ!」
折り目のついた紙をまじまじと見つめる同田貫だが、遠くから聞こえてきた声に顔を跳ね上げる。同田貫が置かれた部隊は今まさに戦へと向かうところなのだ。
手にした紙切れを咄嗟に胴着の中へと捻じ込む。早足に床を踏み鳴らす同田貫の頭の中では、そのとき既に不可解な紙切れの存在など『戦』の一文字の下に追いやられていた。
‐
疲労困憊とはまさにこのことであると、同田貫はだるい体を引きずるようにして邸を歩いていた。
(ちょっと目を放した隙にうろうろ動き回るわ、ぴいぴい泣くわ……。勘弁しろっつの)
同田貫が嘆息する理由は、ここのところの激務にある。
連日のように戦に駆り出されるのは慣れたもので、今朝方になって出陣を言い渡されたそのときも特別不満には思わなかった。体はくたびれても、刀を振るうだけで心は満たされる。同田貫はそういう、根っからの武人気質なのだ。連戦続きの今回も、本当なら充足感に包まれながら自室へ向かっているはずだった。
――戦場へと足を運んだのは六名。部隊の中では古株である同田貫と御手杵、仲間に迎え入れて日の浅い江雪左文字と、今剣に五虎退、そして乱藤四郎というなんともちぐはぐな面子である。
道中、江雪は呪詛のように和睦の道を説いてきたし、索敵中にも関わらず無駄話を止めない乱を注意したら何故だか五虎退が泣き始めるし、今剣はいつの間にか敵軍の真ん中に佇んでいた。頼りにしていた御手杵はというと、江雪にすっかり洗脳されてしまったのか、敵兵に「争いは何も生まねえんだ」などと喚き散らす始末だ。同田貫がそれを取りまとめるのにどれだけ苦労したかなんて、衰弱しきった表情を見れば誰の目にも明らかだった。
同田貫が言えた義理ではないが、協調性とかそういう類の意識が見るからに欠如した面子だ。本丸を出る直前、何か厄介なことが起こるだろうと予感した時点で隊員替えを申し立てていれば、こうも体力を削られることはなかったのにと悔やんでも悔やみ切れない。
「あ゛ー……ねみい。早く寝てえ」
切実な独り言が口を突いて出た。積もり積もった疲労が今回の戦をきっかけにどっと押し寄せてきたような気がする。休息の重要性を痛感しながら、やっと見えてきた自室へと足を速めるが、辿りつく直前になって戸の前になにかが落ちていることに気付いた。
「これ、どっかで……」
渋い顔で拾いあげたそれは、丁寧に折り畳まれた一枚の紙切れだった。内側からじんわりと滲む墨色には覚えがあって、誘われるように広げたところで記憶が掘り起こされる。
ざらついた紙の上につらつらと並ぶ文字。数日前――いやもっと以前だろうか、これにそっくりな紙切れが風に揺られ飛んできたのだった。
ぽりぽりと頬を掻いて、雑に折りたたんだそれを片手に自室へと足を踏み入れる。
棄てた覚えはなかったから、きっといつもの場所に捻じ込んであるだろう。閨も兼ねた狭苦しい空間を圧迫するように鎮座した箪笥に察しをつけて、ささくれた畳の上に刀を転がす。
さして物の入っていない引き出しの奥をのろのろと漁ると、目当てのものはすぐに見つかった。引っ張っても伸ばしても折り癖が取れず、縦横無尽に走る皺だらけのそれを開いてみれば、やはりそこには黒々とした墨で綴られた文字がある。真っ白な紙を埋める文字は流れるようだ。美しい造形であることはなんとなく分かる。だがそれだけだ。
「俺にこんなもん寄越してどうしろってんだ」
二枚の紙を見比べ、同田貫は嘆息する他なかった。
同田貫は字が読めない。無論、書くことも同様だ。
薄暗い室内で見る黒々した文字は田んぼを泳ぐおたまじゃくしのようで、学のあるものはこれを言葉として認識できるのかと困惑してしまう。きっと同田貫を扱った者の識字率は極めて低かったのだろう。無機質な刀として生きたその時代に少しでも活字に触れていたのなら、記憶の一つとして体に染み付いているはずなのだから。
何気なくその場に腰を下ろして、胡坐の上に肘を突く。畳に広げたその紙を無心に眺めたところで、学のない同田貫にはやはり内容を把握することはおろか、たった一文字を読み上げることすら出来なかった。
これは文――なのだろうか。
一体何を意図しているのか、送り主がどこの誰であるのかを理解できる程度の頭を持っていたなら、こうして渋い顔をすることもなかっただろう。相手も相手で、部屋まで来る足があるなら直接渡すなりすれば良いし、むしろ口で用件を伝えれば良いのにと腹立たしく思う。
憤るのはきっと、回りくどいやり方が気に入らないのと、知りたくても知ることの叶わない情報を目の前に突きつけられるもどかしさがあるからだ。
そのくせ進んで知識を得ようとしない同田貫自身にも原因はあるのだが、かといって何から手をつければいいのか想像もつかない。教えを請うとして、一体誰に――。猛烈な眠気を前にして思考はそこで止まる。焦点の定まらない目で文字の断片をぼんやり眺めていると、その一つ一つが浮かび上がって見えて、意味を為さない墨色がまどろむ同田貫の瞳の奥へと飛び込んでくる。それが錯覚に過ぎないことは分かっていたが、打ち捨てられた言葉達が『早く読んでくれ』と意思を持って訴えかけているようで、少し恐ろしい。
疲弊した体は今にも睡魔に飲み込まれてしまいそうだったが、最後に見た光景がこれでは夢見が悪そうだ。脳は抵抗するも、意識は次第に傾いでいく。とろとろと目蓋がくっついて、眠りの淵に身を投げ出したそのときだった。
「たぬき、たぬきや」
ふと、聞こえてきたその声にハッと顔を跳ね上げる。
反射的に振り向いたのと、部屋の戸が引き開けられたのはほとんど同時だった。
「ああ、やはり戻っていたか」
戸に手を掛けこちらを覗き込んでいるのは、悠然とした笑みを浮かべた三日月宗近その人だ。突然の来訪者に同田貫の中に滞っていた眠気はたちまち掻き消える。やはり、というと気まぐれに通りがかった訳でもないのだろう。
「なんか用かよ」
「いやなに、用と言うわけではないんだが。茶でもどうかと思ってな」
「茶ぁ?」
素っ頓狂な声を上げる同田貫を物ともせず、三日月はその痩躯を室内へ滑り込ませた。
同田貫から三尺ほど離れた畳の上に腰を下ろすと、その手に抱えた盆を恭しく差し出す。並んでいたのは梅が描かれた急須に、揃いの湯呑みが二つ。それから桃、白、鶯の三色が目にも鮮やかな団子が白塗りの皿に積まれていた。体を動かし、三日月と向かい合う形でふたたび胡坐をかく。
ずば抜けた実力故に他の刀剣の活躍の場が奪われてしまうためか、ここしばらく内番続きの三日月は随分と時間を持て余しているらしく、同田貫を頻繁に茶に誘う。しかしその際使用するのは大抵が三日月の部屋だ。
四畳半しかないこの部屋に比べ、三日月に宛がわれた部屋は十二畳もの広さを誇る。もっとも三日月を含めた三条派の五名が同室であるため、一人辺りの面積を考えると寧ろ同田貫の私室の方が広いくらいなのだが、各々が戦や内番に励む日中はその空間のほとんどを余すことなく使用出来るという寸法だ。
「わざわざこっちに来なくても、いつもみてえにあんたの部屋で良かったんじゃねえの」
手狭な上に埃っぽいこの場所より、開放感のある場所で飲む茶の方が美味に感じられるのは至極当然で、ついつい非難めいた言葉を漏らしてしまう。
「そうは言っても、こうして来てしまったからなあ。俺の部屋に戻るのも億劫だろう」
「まあ、そりゃあそうだけどよ」
「それとも、俺がここに来ると拙いことでもあるのか?」
冗談とも本気ともつかぬ物言いで同田貫を茶化しながら、三日月の手はゆっくりと急須を傾ける。
深緑の液体がとくとくと溢れ出し、小ぶりの湯飲みを満たしていった。「飲め」と促されるままに一方の湯飲みに手を伸ばすが、爪先に伝わる熱のあまりに高さに思わず腕を引っ込める。茶の接地していない縁の方を両手で持ち、ようやく口元まで運ぶことが出来たが、流れ込んできた火傷しそうな温度に味わうどころではない。ひりひりと火照った真っ赤な舌先を突き出す。
湯気の立ち上る湯呑みを両手で持ち抱え、ふうふうと懸命に息を吹きかける姿がどう映ったのか、三日月はその頬を綻ばせた。
「猫舌のたぬきにはちと熱すぎたな。すまん、俺の配慮が足りなかったようだ」
「……別に猫舌とかそういうんじゃねえ。じいさんと違って舌が敏感なんだよ」
「はっはっはっ、舌が敏感か。それは良いことだなあ。いやなに、こっちの話だ。そうぶすくれた顔をするな」
何が可笑しいのか、高らかに笑う三日月の隆起した喉仏は断続的に上下するが、ほとんど熱湯に近いこんなものをよく飲み込めるものだと感心してしまう。もう充分に冷ませただろうかと茶の表面をつついた同田貫の舌は、また痛い目を見たというのに、だ。二人が口をつけているのはまったく別のものなのではとあらぬ疑念を抱かずにはいられない。
温度を確かめては冷ましてを繰り返す同田貫を他所に、三日月は早々と二杯目に突入していた。からかいたくてたまらないといった三日月の視線を受け流し、ようやく一口目を飲み下す。渋みのあるそれに喉が潤っていくのを感じた。
「たぬきや、団子も一つどうだ」
思わず買いすぎてしまった。そう付け加えて、三日月は町の茶屋の名を挙げた。遠征や買出しの際に、皆が好んで立ち寄る茶屋だ。
ぬるい緑茶の味がする唇をひと舐めして、三色を貫く串を手に取った。犬か猫みたいにスン、と鼻を鳴らすとほんのりと甘い香りが飛び込んでくる。炊きたての米を噛み締めたとき、鼻の奥を抜ける甘みに良く似ていた。
ぐう、とだらしない音をたてて急かす胃袋に従い、団子を頬張った同田貫だが、口の中で押し潰した瞬間に違和感を覚える。一見すると三日月が日頃から手元に貯め込んでいる甘味と変わらないが、過去に食べたものに比べて独特の癖があった。岩融から『餌付け』と揶揄されるほど三日月から甘味を与えられている同田貫には分かる。もしや傷んでいるのだろうか。
危険を疑いながら、真っ白な二つ目をだましだまし食むと、どことなく薬草臭い風味が口内に広がる。覚えのあるその感覚にふと眉を寄せた。時々、疲労で体がどうにもならないときに主から与えられるそれの味だ。際立って不味いというわけでもないのだけれど、舌に残るほんのりとした苦味が同田貫はあまり好きではない。
「ん? もしや勘付かれてしまったか」
険しい顔で口元を押さえる同田貫を、茶化すような、悪戯が露呈して開き直る童のような食えぬ笑顔を浮かべた三日月が見つめている。
疑惑が確信に変わった瞬間、顕著になる薬草の苦味をぬるい茶で流し込む。それでは足りずに急須に手を伸ばすと、「よく冷ましておいたぞ」と代わりに三日月の湯呑みを握らされた。それでも同田貫には少しばかり熱く感じたが、無心に喉を反らし飲み下す。
「――ほんっとよぉ、要らねえことばっかするじいさんだな」
口を拭いながら睨む。
三日月は同田貫に対し、頻繁にこういった行動をしてみせた。腹が減ったと唸れば好物の甘味を、咳を一つ漏らせば漢方を、手入れ部屋に籠れば襖の向こうをうろうろと。つまるところ、やたらと世話を焼きたがるのだ。
「じじいというのはそういう習性を持った生き物だ。もう何日も顔色が優れないままだったからな。健康管理も碌にしないまま、ふらふらと戦に向かうのを見て放ってはおけん」
「顔色なんかな、一晩寝ればあっという間に元に戻るんだよ。気にしすぎだっての」
「おお、それは知らなかったな。しかし今のお前の顔色ときたら、屍の方がよほど健康的だ。全快の状態でたった半日戦に出てそれか、いつからそんなにも脆弱な刀になった」
「あー、畜生うるせえな。揚げ足ばっか取りやがって」
三日月の口から溢れ出す図星を吐く言葉の数々に、決まり悪く顔を反らす。口喧嘩では三日月に到底勝てやしない。いつもそうだ。といって、刀を合わせる喧嘩ならば勝てるのかと言われれば悪態を吐くほかないのだが。
三日月宗近という男は実に目敏く、ときには同田貫自身よりも早くその変化に気が付いた。
善の変化も悪の変化も偏りなく察する観察力を持ち合わせているようだが、こと後者となると惚れ惚れするほど的確な――むしろ過剰すぎるのではと苦言を呈したくなるような最良の判断をくだし、処置を施してくるのが常だ。あらかじめ予防線を張り巡らせるのが癖になっているのだろうか、これは普段の何気ない行動にも現れている。
反対に同田貫は根っこが楽観的であるため、先回りして行動するということはない。たとえ予感めいたものを感じていても、なせばなると根拠もなく信じている。同田貫にはそういう、行き当たりばったりな生き方が一番性に合っているのだ。ときにはそれが原因で土壇場になって後悔したり、自身の首を絞める結果と相成るのだが。
だから痛みだす前に傷を取っ払ってくれるような、三日月の気の利きすぎた行為にはいつまでたっても慣れなかった。至れり尽くせりと言うのだろうか。余計なことをするなというのに、この男は素知らぬ顔で憎めぬことをする。
だが決して強要はしない。声を大にして拒絶すれば、きっと三日月は世話を焼く手を素直に引っ込めるだろう。
そうと知っていて実行しないのは、胸の辺りに沸きあがるこそばゆさがいつだって同田貫の唇を塞ぐからだ。
向けられた善意を突っぱねるくらい容易いはずなのに、三日月を前にすると強情ではいられなくなる。減らず口は相変わらずでも、結局最後には絆されるようにして受け入れてしまう。
「性質が悪いっつうか、なんつうか……」
「んん? なんの話だ?」
「別に、なんでもねえよ。俺も……あんたも、大概厄介な性格してんなってだけだ」
取り繕うように、串にぽつんと一つだけ取り残された鶯色の団子に口をつける。甘さの中に隠しきれない苦味が潜んだそれを、「くそまじぃ」と、ぶすくれながら咀嚼した。三日月はそんな同田貫の姿に目を眇め、空っぽになった湯呑みになに食わぬ顔で茶を注ぐ。歯先でちまちまと齧っていた団子が胃袋の底へと姿を消す頃、幾分かぬるまった茶を差し出されたのだった。
柔和な笑みを浮かべた三日月の視線を感じながら、警戒心の強い野良猫のような慎重さをもって湯呑みに口付ける。口内を満たすそれはやはり同田貫にはほんの少し熱く、嚥下するたびに喉奥を通り抜けるちりちりとした感触は何故だか心地好かった。
「ところで、一つ気になることがあるんだが」
ふと、たった今違和感に気付いたという顔で三日月が指し示すのは、傍らに投げ出した文だ。
「書道を嗜んでいるなんて話は寝耳に水だな」
伏せたそれに染みこむ墨を見て誤解したのだろう、感心したようなその表情に思わず噴き出す。静々と筆を扱う自分の姿をぼんやり想像してみるが、あまりにも似合わない。
「んな高尚な趣味に明け暮れるくらいなら刀の手入れでもしてるっつの。あー……なんつうか、俺のとこに届いた、文? 多分、文なんだろうな。知らねえけどさぁ」
「はて、よく分からん」
三日月が首を傾げるのも無理はない。自分でもなんと要領を得ない解説だろうと思う。
「大した話じゃねえんだ」
そう前置きをして、同田貫はことの次第を語る。重なり合った文を意味もなく弄びながら朴訥と言葉を紡ぐ口元を三日月は興味深く見つめていた。唇の動きをひたすらに追われるのがどこか気まずくて、さりげなく文を手渡してみたところあっさりと視線は逸れる。漠然とした緊迫感から開放された同田貫は、濃紺の毛束が寄りかかる目蓋をぼんやりと眺めながら再び口を動かした。
三日月が合間に口を挟むことはなかったが、文字の読み書きが出来ないという話題に及ぶと、意外に思ったのかその瞳を大袈裟に瞬かせる。
「……そうか、字が読めないと来たか」
顎に指を添え、憮然とした表情を見せる三日月に、文字の読めぬ刀剣とはそれほどまでに珍しいのだろうかと虚を突かれる。意識して見たことはないが、たしかに刀剣の多くは文書の読み書きなど悠然とやってのけていたし、三日月とて例外ではなかった。主が持ち込んだ書物を擦り切れるほど読み込んでいることも知っている。それにしたって必要のある知識だとは微塵も思えず、困ったように眉根を寄せる三日月の反応はいまいち釈然としない。
「なんだよ、学があったってしょうがねえだろ」
だって俺達は刀なんだから。なんとなくばつが悪くて、もう幾度となく口にして来た台詞を吐き捨てた。しかし三日月はかぶりを振って、「肉の体を持つ以上は知恵を身に付けておいて損はない」と、同田貫の意見をやんわりと否定する。
「たとえば敵陣を前にして口の利けない状況に陥れば、意思の疎通を図る術としてもっとも手っ取り早いのが筆談だからな。地面と、指でもあれば簡単な会話は出来る」
なるほど、理にはかなっている。事実、今日の戦でも三日月が口にしたような状況に陥った瞬間はちらほらと存在したし、記憶を遡れば過去に心当たりはいくらでもあった。結果的に丸く収まったと言うだけで、的確な指示を必要とする事態に変化する可能性も決して低くはないだろう。現状に胡座を掻くべきではない、と叱責されている気がして、前屈みにだらしなく歪んだ背筋を伸ばした。
こと戦に関わる問題と分かると、横たわる本能が火を焚べられた薪さながらに熱を孕み出す。今の今まで刀が識を持つなどくだらないと一蹴していたというのに、実に調子が良いな、と溜め息に呆れが混じった。
そうして三日月は、たった一言により裏返った同田貫の考えを見越したようにある提案をする。
「たぬきや、どうせならこれを機に俺から読み書きを教わるというのはどうだ。戦にも必ず役立つ日が来る」
言葉尻は取って付けたようだが、既にそちらへ傾きかけている気持ちを引くには充分だ。ともすれば唇から滑り落ちそうな「刀なんだから」と都合の良い言い訳を防ぐにも打ってつけだ。
「――それに、読まれもせずに打ち捨てられる恋文が憐れだとは思わんか」
「はぁ?」
後押しするように三日月が足したその言葉に、返答を忍ばせた唇が間抜けに開く。不可解な発言に瞠目する同田貫を一瞥した三日月は、手元の紙を指先で叩いた。とんとん、と軽快な音がやけに大きく響く。
「よもや恋文も知らんとは言わせんぞ」
「……誰が誰に宛てた恋文だって?」
「はっはっは、やはりたぬきは可笑しなことを言う。この部屋に届く恋文だ、同田貫正国に宛てたものに決まっているだろう」
胡散臭げに見遣ると三日月はその文を眼前に突きつけてきたが、当然そこに綴られた内容を理解することは不可能だ。
「差出人の名はないな。きっと『しゃい』なのだろう」
主から教わったと思しき蛮語を強調し、三日月は首を振ってみせた。
恋文。
よもやそこに記されているのが惚れた腫れたにまつわるものだとは、予想だにし得なかった内容に拍子抜けする。まして自分宛てとは。
そこにはどんな言葉が並んでいるのだろうか。同田貫はとりとめもない想像を膨らませた。興味本意に近い、差出人が知れば顔を顰めるであろう不誠実な求知心だ。それを満たすために三日月に一語一句漏らさず読み上げさせるだとか、送り主を晒し者にするのは本意ではない。第三者に過ぎない三日月に見せてしまったことを申し訳ないとすら思った。恋文とは秘めたるものだということくらい、同田貫だって知っているのだ。
文へと一直線に向けた視線には、隠し切れない興味や好奇心がありありと滲み出していることだろう。本当に、誰よりも同田貫の扱いが巧みで腹が立つ。もしかしたら同田貫自身よりもその操作方法を心得ているのかもしれない。この雑然とした考えすら見透かされているのでは、と、あらぬ疑いを抱きつつ、唇を迷わせる。
「――言っとくけど、俺は戦以外からっきしだからな。それでも良いってならいいぜ。暇潰しにもなるだろうしよ」
考えあぐねた結果、同田貫の口を突いて出たのはそんな言葉だ。
ああ、もっと言い方はあるだろうに。人の手を借りるときくらい、ぶっきらぼうな態度は慎むべきだと誰かに諭されたことを思い出して、同田貫はまるで可愛げのない自身の発言を少しだけ後悔する。だが三日月は気分を害した素振りも見せず、むしろ上機嫌とも取れる笑みを浮かべて「なに、出来が悪いくらいの方が教え甲斐がある」なんて嘯いた。
月の浮かぶ夜空を模したその瞳はあくまで穏やかに笑みを湛える。虚勢を張ったり減らず口を叩いたり、きっと煩わしく厄介であろう同田貫を受け入れてくれるその寛容さに、自分がとてつもなく未熟に思えて唇を噛んだ。
「思い立ったが吉日とは言うが、夕餉も近いことだ。また明日にでも時間を取るか」
わざとらしく腹の辺りを撫ぜる三日月だが、同田貫の体を気遣っての選択であるのは明白だ。
また、胸の辺りがざわつく。全身を苛んでいた倦怠感はいつの間にか薄れていたし、代わりに同田貫の心に渦巻くのは乾いた筆の先でくすぐられているようなくすぐったさだ。
空になった湯呑みを盆の上に集め、立ち上がった三日月を引き止めるのは容易いことだ。しかし、別れの挨拶の代わりか、すらりと伸びた手が頭のてっぺんに柔らかく触れたその瞬間も、同田貫は不貞腐れたような顔を作って唇を結ぶばかりだった。
部屋を後にする背中を見送ってようやく、大きな溜め息と共にへなへなと脱力する。前屈さながらに頭を下げ、秀でた額を押さえる。ぐっと握った拳に伝わる温度はやたらと熱い。今自分がどんな顔色をしているのかなんて考えるまでもなかった。
甘味を好んで、薬を嫌って、明日からは勉に励む。ときには見知らぬ誰かに好意を寄せられる。内から外から徐々に人間に近付いていく感覚はなんとも形容しがたい。
戦場のにおいを肺いっぱいに吸い込んだ瞬間、沸き立つ高揚感に『自分はどうしようもなく刀であるのだ』と実感して、そのくせ人間じみた思考や生活になんとなく順応していく自分が時々無性に嫌になる。
そして、何よりも同田貫を戸惑わせるのは三日月の存在だ。
絡んだ糸を解くように、自分がゆっくりと懐柔されていくのが分かるのだ。それはこれまで向けられたことのない丸みを帯びた言葉であったり、幼く向こう見ずな同田貫の性質を難なく受け入れる包容力であったり、他者から見ればたいしたものではないのかもしれない。だが同田貫はことごとく馴染みのないそれらに、途方もないもどかしさと心地よさを感じていた。
時々、馬鹿を見るくらいが丁度いいのに、粗雑に扱われて怪我をするくらいが気楽なのに、あの男はいつだって温柔敦厚に同田貫を待ち構えている。どこか飄々とした顔で、壊れ物でも扱うみたいな繊細な手つきで。
三日月は真綿のような男だ。同田貫の全身を覆うささくれを物ともせずに優しく包み込む真綿。だがその柔らかさ故に同田貫は頭まで沈んでしまって、そのうち碌に息も出来なくなる。呼吸の仕方を忘れた鯉に成り下るのだ。
少しずつ、しかし確実に脳内に広がっていく甘ったるくふやけた気持ちを認めたくなくて、三日月の手のひらの感触がくっきりと残る頭を無造作に掻き混ぜる。
「――くそ、あの人といるとどんどん駄目になりそうだ」
本当に、なんて厄介なのだろう。
自分が駄目になっていく瞬間を目の当たりにするなんて苦痛でしかない筈なのに、明確な嫌悪感を抱けずにいる同田貫のふやけた思考がもっとも厄介で、もっとも性質が悪い。うんざりしながら目を瞑った。
そう間をおかず沈んでいった意識の奥で同田貫は夢を見る。不明瞭なものに体が侵されていき、もがきながらも篭絡される夢だ。
半ば諦めながら手足をばたつかせる同田貫は、じわじわと自身を支配していく感覚の名前を知らなかった。ただ、その名を知ってしまったらもう二度と抜け出せなくなるのかもしれない。そんな漠然とした危機感がけたたましい警鐘を響かせていた。
‐
翌日から、三日月は主の部屋から拝借したのだという書物を片手に、暇を見ては同田貫の部屋を訪れた。一つ一つの文字と音を組み合わせて記憶するのはそう難しいことではなくて、平仮名のみで構成された文章などは存外あっさりと読み上げられるようになった。書く、となると筆は迷ってしまうが、指は徐々にその造形を覚え始めている。
「なぁ、くも。『くも』はどう書くんだ」
空をぼんやりと泳ぐ真っ白なそれを指差す。
三日月は相変わらず悠々閑々としていて、息抜きと称し縁側で湯呑みを手にすることは多かった。同田貫の部屋に面したそこから見る景色は特別素晴らしいというわけでもなかったけれど、無造作に散らばる自然のかけらを何の気なしに眺めるのは嫌いじゃない。
空になった湯呑みを置き、ぶらつかせていた足を地面につける。だらしなくしゃがみこんで、食べ終えた団子の串で均された土をかりかりと引っ掻いた。
『くも』
覚えて間もない平仮名だ。少し歪な形をしていたけれど、同田貫はさほど気にしない。
振り返ると齧りかけの団子をまるで餌付けでもするかのように差し出されたので、面食らいながらも口をぽかりと開く。微笑む三日月に見守られながら頬張ったそれがいつもより甘く感じられたのは、渋い茶を飲んで間もないからだろうか。裸になった串を片手に満足げな三日月が、同田貫を真似て土を掻いた。
『雲』
難解な、と顔を顰めながら見よう見まねでそれに倣う。
くも、雲、雲、雲。
目で学ぶことも重要だが、一番手っ取り早いのは書き起こすことだと最初の日に教わった。だから同田貫は律儀にそれを守っている。事実、頭と体に染み込む速度は書く書かないに左右される面が多いように思った。
「土色の空に浮かぶ雲か、まるで雨雲だ。今夜はきっと雨になる」
揶揄っぽく言った三日月の手により、『雲』の傍らに『雨』が寄り添う。同田貫が手癖で模倣を繰り返すものだから、踏みつけた空はあっという間に雨雲に覆われてしまった。言葉遊びを楽しんでいる内に、雨雲は雨へ、雨は大雨へと上書きされていって、手に届く範囲いっぱいに広がる混沌とした光景に思わず噴き出す。
「流石によぉ、局地的にもほどがあんだろ」
「見事にたぬきの部屋の前だけを狙っているなあ。空に恨みを買うような真似でもしたか」
「あ、増やすんじゃねえっての。あんたの部屋の前にも降らしてやるからな」
「はっはっはっ、岩融と今剣辺りは喜ぶかもしれん。俺は桜でも降ってくれたほうがいくらか嬉しいが」
二人は軽口を交わしながら地面をいくつもの言葉で埋めていく。
同田貫は近頃目に入る物に宛がう漢字をたびたび問うようになった。息抜きの最中くらい頭を休めればいいのだが、お遊びの延長のようなこれのほうが、書物と真剣に向き合って学習するよりも不思議と記憶に残るのだ。まずは基本となる平仮名をしっかり学ぶべきだとやんわり言い張る三日月も、このときばかりは小難しい漢字の数々を教えてくれる。
背中を丸めて地面をつつく姿は一見すると悪戯描きに励んでいるかのようだ。まあ、感覚としては大差ない。
「それは? なんて読むんだよ」
かりかりと刻まれていく見慣れぬ文字を見下ろし問えば、三日月の唇は「さくら」と穏やかな声で紡いだ。
さくら、桜。手のひらで地べたの雨を掻き消して、すっかり土色に染まった串でその文字を真似る。
見頃を終えて随分痩せ細った枝からなけなしの花びらが散っていく中、幹も枝もないこの平たい場所で再び花は大きく開き始める。しゃがみこんだ体を閉じ込めるみたいに増えていく桜。まるで同田貫の心を映しているようでむず痒い。
三日月の足元、手を伸ばせば届くそこに桜を刻むのが躊躇われたのは、それが秘めた気持ちを仄めかす行為に思えたからだ。
双眸は乾いた土を見下ろし、一心に知識を与えてくれる。しかし、少なくとも同田貫の中でそれは純粋に学ぶことを目的とした行為からは逸脱していた。
指導を仰ぎながら、伏せた睫毛や笑む口元を何度盗み見たかは知れない。波立った心を静めてくれる凛とした声に陶然とし、沸きあがる想いに飲まれてぼんやりしてしまうこともあった。集中力の欠如が日に日に顕著になっていくのは、時間の経過と比例して増幅していく気持ちの証明で、つまるところ、同田貫は三日月と過ごすこの瞬間に春を感じていたのだ。
いつか見た夢は『気付いたら抜け出せなくなる』と警告を寄越していた。最近はまったくもってその通りだと痛感する日々で、三日月を前にして抱く、頭の先から足の先まで砂糖水に漬けられたようなこの感覚に溺れるばかりだ。
一つ言い訳をするなら、恋慕と呼ぶに相応しい浮ついた感情を、同田貫は自ずから認めた訳ではない。
踏み止まる心を打ち砕いたのはあの文の差出人だった。
返事を書いてみればいい。
それは読み書きを教わり始めてどれくらい経った頃だったか、最初に提案してきたのは三日月だ。
件の恋文を判読した同田貫が第一に感じたのは、まっすぐに向けられる好意への戸惑いである。
顔が分からないどころか名前すら知らない相手に惚れた腫れたと告げられたところで、心に刺さるものなどない。きっと並ぶ言葉に込められた意味の半分も理解できてはいないのだろうけど、募る想いを書き連ねるだけの文面はとても一方的に思えたし、最後に付け加えられた『叶わずともいい』という一文に至っては独りよがりにも程があるだろうと苛立ちを覚えた。
伝える方法のまどろっこしさもさることながら、垣間見える臆病さや、こちらの意見を遮断するその内容も気に食わない。同田貫はなんとなく釈然としない気持ちのまま、文を箪笥の奥底へとしまい込んだのだった。
だから三通目が届いたとき、予見していた文面とはかけ離れたそれに興味を持ったのだと思う。
『文のやりとりから始めてはもらえませんか』
体裁も何もない簡潔な一文だった。
以前の二通に比べると随分毛色が違うが、流れるような字面が差出人を物語っている。どういう心境の変化なのだろう。ただ三通目にして相手がようやく歩み寄りを見せたことは確かだ。
とは言え、相変わらず名も明かさないのでは文のやりとりどころではないだろうと呆れてしまう。
そしてその日の夜だ。世間話のつもりで、なんとも風変わりな文が届いたのだと告げると、三日月は「返事を書いてみればいい」とのたまった。無責任な発言に同田貫が眉を顰めたのは言うまでもない。
「名前もなにも記してねえんだぞ? 返事を書いたところで、それを相手にどうやって届けるんだよ」
「差出人はいつもたぬきの部屋の前に文を置いていくんだろう。同じようにそこに置いておけばどうだ」
「俺の部屋の前ぇ? それ、気付かない可能性の方が高いんじゃねえの?」
「まあ、それもそうだなあ」
所詮は他人事だと思っているのか、三日月は湯呑みを片手にいい加減な物言いをするばかりだ。
しかし、同田貫は結局その言葉に従うことにした。好意を返してやることは出来ないけれど、その突然の変化の理由だとかを問いたかったのだと思う。考えてもみれば冷やかしと大差はないが、相手だって正体を明かさないという不躾な真似をしているのだ。少し攻撃的な気持ちがあったことは否定しない。
そうして同田貫はその晩、小一時間頭を悩ませ筆を置いた。
『おまえの、名前をきいてもいいか』
書き損じた幾枚かに比べ、随分と簡素だ。本当はもっと色々と問い詰めたいところだが、三日月の言葉を借りるなら相手は『しゃい』であるので、まずは肩慣らしから始めねばならないと軌道修正したのだ。
それに同田貫の字はお世辞にも綺麗とは言い難い。つらつらと書き綴るよりも見易いだろうと自分なり配慮したつもりだ。
翌日、開いた戸の向こうに自分が置いたものではない新たな文の姿を確認したときは、まさか本当に文通が成立するなんてと驚愕した。
『それは教えられません』
内容は前回以上に簡潔だけれど、明確な意思を持っていたから返信を考えるのは容易だった。何故、とかそんなありがちな質問を返したように思う。
『名を告げれば、あなたと顔を合わせることが出来なくなるかもしれないでしょう。恋は弾けると、それまで築いてきた関係も失ってしまう』
――なら、その『恋』の気持ちも俺に言わなきゃいい。隠しておけばいいだろ。ちゅうとはんぱ、だ。
『留めておけなくなったから。恋が胸に込み上げると、呼吸もままならない切なさに飲まれて、心を掻き毟らずにはいられないのです』
――『恋』って大して良いもんじゃねえんだな。なんでそんな面倒なものに溺れるんだ。なんで好きとか、そういう気持ちを持つんだ。
『いつの間にか心を侵していて、気付いたら抜け出せなくなるのが恋だから』
やりとりを繰り返すうち、心臓に打たれた杭が深度を増し、じわじわと穴を押し広げていくような錯覚を覚えた。
全身を走るのは強い既視感だった。同田貫はこの名も知らぬ差出人が語る『恋』とやらを知っている。そんな気がして胸がざわついた。最後に届いた文がいつか見た夢を明示していたことで、漠然とした予感が確信に変わる。同田貫が三日月に対して抱いている不明瞭なそれこそが『恋』であるのだと、まざまざと思い知らされ、半ば強制的に自覚を促された瞬間だった。
『気付いたら抜け出せなくなる』
その一文を反芻するたび、三日月と他愛のない時間を共にするたび、気付いてしまったことを――気付かされてしまったことを同田貫は酷く後悔する。
そのときから世界はなんとなく違って見えて、特別輝かしいとか美しいとかそういう訳ではないのだけれど、ほんの少し色づいた。些細な変化なのだと思う。ふと見上げた夜空に三日月の双眸を重ねたり、甘味屋の前を通り過ぎざま三日月お思い出したり、とても些細でなんでもないような変化。しかし突如失ってしまったら、同田貫の日常はあっという間に精彩を欠いてしまうだろうと分かる、そんな変化だった。
「風が随分ぬるくなってきたなあ」
絶えず手を動かしながら、三日月は穏やかな声を漏らした。
「花散らしの雨も降ったことだ、そろそろ桜も見納めだな」
「花散らしの……なんだそれ」
「ちょうど見頃になると降る、開いた花を散らしてしまう雨のことだ。次の春を迎えるまで、満開の桜はおあずけか」
どことなく哀愁を帯びた声音だった。
ようやく咲いた花を散らす雨。春の痕跡を洗い流すみたいに降り注ぐ雨に晒され、しおれてしまった花の残骸だけを残して初夏が訪れる。それが酷く物悲しく思えたのは、同田貫の中で花開き始めて間もない恋の末路を物語っている気がしたからだ。
恋が胸に込み上げると心を掻き毟らずにはいられなくなるのだと、あの文の主は言っていた。
想いが溢れそうになる瞬間を、やがて同田貫も迎えることとなるだろう。三日月に見据えられ、勝算もない煮詰まった気持ちを吐露出来るだろうかと考えて、文の主の心情をようやく理解する。恐ろしいのだ。想いを寄せる人の唇が拒絶や否定の言葉を紡ぐのが、散っていく恋を目の当たりにするのが、とても恐ろしい。
だから恋文という方法を選んだ。名前すら隠して。最初は想いをぶつけるだけで満足だと思っていたのだ、きっと、未練みたいなものを堪え切れなかっただけで。
「どうした。そんなにぼんやりとして」
心ここにあらずといった同田貫の顔を、三日月が覗き込む。
頬に垂れた濃紺の髪に桜の花びらが絡んでいた。ふい、と目線を逸らして、三日月の足元に『桜』の文字を刻む。先ほどは躊躇ったその行為は、いざ手を動かしてしまえばどうということはなかったし、そんなことで三日月が同田貫の抱えた想いに気付くなんて都合の良いこともなかった。三日月はただ、微笑ましい光景を目にしたとばかりに柔らかな笑みを浮かべるだけだ。
同田貫を囲うものに比べ、歪で不恰好な桜。それを愛しげに見下ろす三日月の姿に、切なさが込み上げた。
「俺の周りに咲いた桜の半分でも、あんたの周りに咲いてくれりゃいいんだけどな」
「そう言うなら、その手で咲かせてくれれば良い」
「……あんたなぁ、簡単に言うんじゃねえよ」
こっちの気も知らねえくせに。心の中で毒づいて、歪な桜を繰り返しなぞった。今は半分だなんて贅沢なことは言わない。たった一輪だけで良いから、三日月の元にも同じ桜が咲いていればいいのに。そう思った。
しゃがみこんだ足がじりじりと痺れ始めた頃、三日月が腰を叩きながら立ち上がる。
「そろそろ部屋に戻るか」
そう言って差し出された手を、同田貫はどこか夢見心地で眺めていた。こんな生産性のない時間の終わりを惜しんでいるのは同田貫だけなのだろう。三日月にとってきっとこれはとりとめもない、日常のほんの一時だ。向かい合い、同じ時間を共有しているのに抱く感情は噛み合うことがないなんて、なんだかとても空虚に思えた。
だからその手を取ることは出来なくて、適当な相槌と共にぐぐっと伸びをする。膝に両手を突いて立つ同田貫に、三日月の双眸がほんのりと翳った気がしたけれど、瞬きの間に背中を向けられてしまったから確かめることは出来なかった。足元に散らばる幸福の痕を目の奥に焼き付け、地面を蹴った。