裏庭に面した部屋の、茶けた畳の上で三日月は目を覚ます。部屋の真ん中にぽつんと敷かれた布団に背を預けたまま、腹に巻きつけられた包帯を眺め、触れると、たちまち走る鈍痛に小さく呻いた。絞りだすようなそれを、食いしばった刃の奥にわけもなく吸い込んで、少し笑う。どうせここには誰もいやしないのに、人目を気にしてどうするのだ。思い直し、好き勝手に沸いてくる情けのない声を出し尽くして、三日月は息を吐く。
先の戦で負ったこの傷が完治するまでに、あとどれくらいの時間を要すだろうか。三日月は胸のうちにそんな疑問を浮かべながら、不自由な体を脱力させた。体感ではもう何日も、この手入れ部屋に押し込められている。
枕に沈んだ頭だけを動かすようにして、ふと光の射し入るほうへ目を遣ると、紙の破けた障子戸の向こうに、師走に似合いの白んだ陽射しを受け止めあたたまる裏庭が眺められた。縁側と庭とを仕切る木戸は無防備に開け放たれている。景色を遮るものと言えば、せいぜい障子戸の木枠くらいのものだ。寸分の狂いなく組み上げられた格子を、三日月は視線で追い越す。そうして見える景色を瞳に吸い込んでは、そのまぶたに記憶した。
左上から右上へかけて、ちょうど体を横たえたまま外を覗ける位置に裂け目はあった。狙いすましたかのようだと三日月は思って、誰とも知らぬ、障子紙を破り捨てたその人へ心のうちで深く頭を下げる。時折強く吹き込む風は冷たけれど、折り重なった布団を首元まで引き上げればどうということはなかったし、第一に、なんてことはない冬空や枯れ草の地面を眺める楽しみを奪われてしまうと、どこかの鶴ではないがあまりに退屈で死んでしまいそうになるのだった。
裏庭に見られる景色はどこまでも枯れていて、色気のないその風景には趣が感じられるものの、そこはかとなくうら悲しい、哀愁にも似た何かが胸を過ぎる。ふつふつと湧き上がるこの気持ちははたしてなんだろうかと、まだ少し寝惚けた頭を回しはじめて間もなく、縁側に背の高い影が差した。ゆっくりと引かれた障子戸の向こうから顔を見せたのは主で、具合はどうだと憚ることなく室内へ立ち入ると、彼は重く温もった湯桶と手ぬぐいを枕元に置き、三日月の容態を窺う。
ゆるりと笑んで軽口を返すと、安堵した様子の主はいくつかの世間話をくちびるに乗せたあと、もののついでのようにある打刀の訃報を口にした。聞くともなしに聞いていた声が紡ぐ、その名を耳に、三日月は動揺のまま障子の向こうへ視線を遣る。遠く裏庭に、人影はない。ああそうかと、三日月はひとりごちて、哀愁のわけを悟る。幾度も踏みつけられた枯れ草だけが、あの刀がたしかにそこに存在したことを証明するように萎れ、吹き付ける冬風になびいていた。
夢落ちる庭に
同田貫正国という刀について、三日月が知り得ることは数えるほどだ。
丈夫で、飾らず、時には戦狂いと揶揄されるほど戦場を愛して止まない刀、それが三日月にとっての同田貫正国だった。
三日月には、同田貫と言葉を交わした記憶がない。三日月と並べば、いくらか小柄に感じられるであろう体躯に迫ったこともなければ、食事を摂る姿や、誰かと談笑しているところへ遭遇する機会も極めて少なかった。配属された部隊が異なっていたためだとか、生活時間からしてすれ違っていたのだとか、そもそも互いが互いに他者への関心が薄すぎたのだろうとか、今となっては様々な要因が重なり合って、ふたりは隔てられた関係にあったのだと思う。
ただ、息吐く間もなく戦へ駆り出されては手入れ部屋に放り込まれるたび、三日月は同田貫の姿を目にしていた。
裏庭の中程である。手入れ部屋の、件の裂け目から臨めるそこでの鍛錬を同田貫が日課と決めたのは、おそらく先頃の冬になって間もなくのことだった。開けた草地に立ち、冴え冴えとした季節を思うといささか涼し気な黒灰色の衣服を纏った青年が、ひとり夢中に刀を振るっている姿をはじめて目にとめたときの興奮を、三日月は未だ鮮明に覚えている。
玉の汗が浮かぶ顔のおもてには、鼻梁を横断するようにしてかかる刃創に、琥珀色の瞳がふたつ置いてあった。空からこぼれる月明かりに眇められた色が、ちかちかと瞬き、振り下ろした刃の行方を追いかける。そのまなざしの澄みやかなことと来たら、あとにも先にもこれ以上のものに巡り会うことは叶わないだろうと思えるほどに美しく、満天の星空の元で霞むどころか、いっとう輝いて見えた。
以来、三日月は手入れの合間にたびたび裏庭を眺めた。自由にならない体を布団の上に放っている間だけが、同田貫正国という存在を視認する唯一のときで、そうしてそのとき三日月はひとつの例外もなく、ひたむきに鍛錬に励み、ふたつの瞳を煌々と輝かせる同田貫の姿に見入ってしまうのだった。
小高い山々に囲まれた本丸周辺の天候は実に不安定で、冬ともなれば、雪と言わず雨と言わず色々のものが予告なく降り落ち、邸に住まう皆を悩ませる。けれど同田貫は雨雪など意にも介さず、決して恐れもしなかったので、悪天候に見舞われる夜も、朝も、構わず裏庭で刀を振るっていた。雨だれの向こうにある濡れそぼった姿は、三日月の目に滑稽に映るときもあった。雨も厭わず鍛錬に励むのは結構なことだが、それで風邪でも引いたら元も子もないだろうにと、呆れたりもした。それでも、同田貫の瞳に灯る、星のようにまばゆい光をまぶたに受け止めると、三日月は胸のうちにざわめくすべてがどうでもいいことのように思えて、光のまばたきにただただ見惚れてしまう。
やがて初夏を運ぶ青々とした風が本丸に流れはじめる頃にもなると、手入れ部屋の障子紙は新しく貼り直されてしまったが、いくらも経たぬうちに破られ、ふたたび大きな裂け目が出来てしまった。猫や犬の類か、はたまた人の手によるものか、さだかではない。ただひとつたしかであるのは、その裂け目を作りだした犯人は三日月ではないという事実だった。
破いた者が正直に名乗りでるまで、彼処の障子はああしてみすぼらしいままにしておくからね、と呆れた様子で皆に言い含める主を尻目に、三日月はふたたび臨めるであろう景色を思い、手入れ部屋の世話になるその日に少しだけ期待をした。戦に従事する者らしからぬ思考を恥ずべきと己を叱責しながらも、三日月の脳裏には琥珀のきらめきと、凛と背を伸ばし刀を振るう同田貫の姿がくっきりと浮かび上がり、いつまでも消えることはなかった。
それから幾月が過ぎても、三日月の目にきらめきが褪せて映ることはなく、飽きもせず同田貫の姿を眺める日々だったが、隔てられた距離は変わらずふたりの元にあった。
星を摘もうと試みることが、どれだけ無謀で愚かしいことであるのか三日月は知っていたし、星のまたたくそこから三日月の姿を捉えられるはずがないということも知っていた。だから、ふたりが見る者と見られる者のまま、今日という日を迎えたことは必然だったのだと三日月は思う。
「それじゃ、土、かぶせるからな」
裏庭の、塀にほど近い木の根元に、同田貫の墓は立てられることとなった。
夜も遅くになって、同田貫とは懇意な間柄であった御手杵と、泣きじゃくる五虎退にそれを叱責するへし切という一風変わった面々が顔を突き合わせ、人ひとりがゆったりと横たわり眠れるほどの穴を掘った。充分な穴が出来上がり、やがて御手杵が返したばかりの土を穴の上へと放りはじめると、五虎退の咽び声はいっそう悲痛な色をのせる。これ以上は見ていられん、そう言って、濡れそぼった五虎退の手を引き邸へ消えていくへし切の姿を、御手杵は苦笑と共に見送った。まあしょうがねぇよなあ、そんな風にふやけた声が薄闇に包まれた裏庭へと落ちる。
穴の中には、遺体も、遺骨も、なにもない。奇妙な葬送を見守る者も、今となっては三日月ただひとりきりだ。
元あったように土が戻され、徐々に埋まっていく穴を、三日月は少しばかり離れた草地の上で見つめていた。あと一山で土を被せ終えるといったところで、御手杵は手にしていた鋤を三日月のほうへ放って寄越した。最後の土はあんたがかけてくれ、そう告げる御手杵の顔のおもてを、逆光が塗りつぶす。言われるがまま、掴んだ鋤は腕に重かった。
撒くようにして被せられた土を確認し、御手杵はやわい地面へ汚れた刀の柄を立てる。花も咲かぬ凍雲のもとで、土色に染まった手が墓場を整えていく様子を横目に見ながら、その場から早々に立ち去ろうと踵を返した三日月を、なあ、と軽い調子の声が呼び止めた。けれど声はそれ以上続かず、どこかもの寂しげな気配だけが辺りに漂う。
そのまま放って行ってしまえばいい。三日月は思ったが、なにせ今夜の月はあんまりにも綺麗だったので、邪険に突き放す気も失せ、日本酒はいける口か、と御手杵にそのようなことを尋ねたのだった。
ふたりは火鉢から立ち上る熱を体の半分に受け、しんと冷たい縁側で盃を傾けた。火鉢を挟んで隣に腰掛ける御手杵は、月明かりに照らされた墓を眺めながら酒なんて、もしかしなくても悪趣味だよなあ、と可笑しそうに喉を鳴らし、遠く墓標を眺める。
背後に位置する手入れ部屋には、気難しげに眉根を寄せ、障子戸の内側に凭れかかり眠るへし切の姿があった。その?は少し赤く、こぼれる息は酒気を帯びている。五虎退を宥めたあと、ふたたび墓の付近へ姿を現したへし切に、一杯どうだと声をかけたのは三日月だった。三日月とて人のことを言えた義理ではないが、同田貫とそう親しい仲とも思えぬへし切が何故この葬送に立ち会ったのか、ひとつ尋ねてみたかったのだ。とは言え、三日月が盃を数度傾ける間に酩酊し、すっかり眠りこけてしまったへし切を前にしては、なにを問いただすことも叶わぬのだが。
ふたりきりの酒盛りは、思いの外和やかな雰囲気の元にあった。酒が滑りを良くしているというのもあるのだろうが、御手杵は実に饒舌で、呼吸する時間すら惜しむようにたくさんの言葉を口にした。同田貫が生前、好んだものやこと、周囲の刀剣たちと交わした些細なやりとりや、時折起きたいざこざ。とるに足らないささやかな思い出話は、故人を偲んでというより、ほんの少しの間席を外したその人をからかって遊ぶような気楽さで語られていく。
湿っぽいのは好きじゃないだろうからさ、と一言、言い訳みたいに呟いた御手杵の横顔に、三日月は何を言うでもなかった。ただ、尽きる気配のない思い出話を耳に捉えながら、舌に辛い酒をゆっくりと啜り、知らぬ同田貫の姿を目に浮かべる。
酒が目減りし、夜も更けてきた頃、御手杵はうっすらと赤らんだ目に紺碧の空を映し、同田貫が見たある光景について語りはじめた。
「裏庭に立って、刀を振るだろ。そうしてしばらく経つと、視界の端に時々、その裏庭にはない色がちらつくんだ。遠く邸の方を見ると、ちょうどこの縁側と手入れ部屋を仕切るみすぼらしい障子の裂け目から、藤や、飴や、色んな色が覗いて、まばたきをするらしい。薄暗い室内にある色や光は同田貫が立つ場所からよく見えて、中でも青い夜空色は、ひときわ目につくんだって」
ほう、と何食わぬ顔で相槌を打ちながら、三日月は良い具合に回った酔いが嘘のように醒めていくのを感じた。盃を傾ける手を止め、御手杵の言葉に意識を傾ける。
「水底から夜空を見上げたらちょうどあんな感じだろうって、あいつ、珍しくぼんやりした顔で言うんだよ。濡れたようにつやつや潤んで、星やら月やらに似た光が、暗い青の奥底でまばたいて……。本物の夜空のもとでもまるで見劣りしないそれが障子の向こうから覗く日は、いやでも集中力が途切れちまうから嫌いだとか不貞腐れた顔してたなあ。でも、あんなに綺麗なもんが誰の目にもとまらず日陰にちらついてるのは勿体無いだろって下手な言い訳して、あいつは雨の日だろうと雪の日だろうと、この場所で鍛練するのをやめなかった」
御手杵が息を吐いた拍子に、背後のへし切がもぞもぞと身を捩る気配がした。寝ぼけた様子のへし切は凭れていた障子戸からわずかに身を離し、三日月たちの方へ顔を振り返らせる。障子紙の裂け目から覗いたふたつの藤色に、三日月のくちびるから、ああ、と声にならない声がひとつ洩れる。
ちらつきはじめた雪が地面に落ちる音すらうるさく思えるような、深い沈黙が辺りを満たしていた。
「同田貫は手向けの花なんか喜ばないだろうからさ、時々でいいんだ、あいつの墓を眺めてやってくれよ」
なあ、と三日月の瞳を見つめた御手杵は、手にした盃を一気に煽って、やっぱり酒ってそう美味いもんじゃねぇなあ、と気の抜けた顔で笑った。
同田貫の葬送から、ひと月、ふた月と過ぎた頃、三日月は久方ぶりに手入れ部屋の世話になった。大きな傷が癒え、三日月が目を覚ましたのは夕刻を越えて間もなく、薄く紫の雲が少しずつ夜の色に取り込まれ消えていく時分のことだ。
障子戸はみすぼらしい裂け目を作ったまま、相変わらずそこにあったが、冬も終わりに近付き、吹き込む風は以前よりいくらかあたたかい。
三日月は寝返りを打つと、何度かまばたきをして、その裂け目の向こう側へと視線を遣った。
裏庭一面に薄く繁った草が、春の到来を報せるように緑を宿しはじめている。空へ向かってぴんと背を伸ばす草の奥に目を凝らし、光を探しても、そこにはなにもなかった。代わりとでも言うように、木の下へ突き立てられた刀の柄が星明かりにひらめいている。
やがて三日月は観念したように息を吐くと、あるはずの色がひとつ足りぬだけで、景色はこんなにも侘びしくなるものなのだなあと、そんな風に独り言を洩らし、襦袢の裾が汚れるのも構わずに裏庭へ降りた。
裸足で踏む草は、露を纏って冷たかった。墓標を囲う土は、触れるとまだやわかったので、三日月は死者への冒涜も厭わず墓を暴いた。月のもとに青白い両の手がどれだけ夢中に地面を掘り返そうと、そこには同田貫の骨や、まして彼が瞳に湛えた光などが埋まっているはずもない。徐々に固く、石を混じえはじめた土は、けれども人の肌を思わすあたたかさで三日月の手を包み込む。この土の深くでたしかに眠っていることを、同田貫が報せてくれているのだろうと、三日月は夢見がちに思った。ふ、とこぼれた白い息を追いかけるように、夜空を仰ぐ。
空には、数多の星がさんざめいていた。青に黄、薄らいだ赤に、金や銀。散らばる色は数えきれないほどで、溜め息が洩れるほど美しくあったが、裏庭に落ちる、今は二度と眺められぬ光のきらめきを思うと、そのどれもがくすんで見えた。
空はあんまりにも高かったので、いつかふたつの光を眺めた障子の奥と、この裏庭との間に作られた距離が狭くちっぽけに思えた。
手を伸ばせば、もしかしたらあの光に届いたのかもしれない。まばゆさに目が眩んで、そこにある距離をただ見誤っていたのかもしれない。三日月は胸のうちにそんな後悔を並べ立てたが、すぐに可笑しくなって、否と首を振った。
「……気付くには少し、遅すぎたのだ」
なあ、同田貫、と、はじめてくちびるに乗せた彼の名は、夜のしじまにむなしく響き、誰に届くことなく薄らいでいく。
三日月は散らばる土を両手で包んで、こぼれる涙と共に彼の眠る場所を埋めた。雨雪に晒されても尚、めげず凛とそこに立ち続けた墓標が、ふたつの光のもとにつやめいていた。