まだ青い光がまぶたを撫ぜる。導かれるように目覚めた同田貫は、迫り来る朝の気配に包まれた室内に眉を顰めた。ほの暗い闇を暴こうと、障子の向こうでやわい陽が揺れている。そのすぐ手前、六畳にも満たない部屋の片隅で、同田貫に背を向け胡座を掻く男の姿があった。濡れ色の髪と同じ、濃紺の着流しに包まれた背が一定の間隔で揺れ、そのたび砥石に刃を滑らせるような音がする。男が墨を擦っているのだと気付くのに、それほど時間はかからなかった。筆まめな男はよく、二言三言と声を交わせば足りるような事柄を文にしたためて寄越したから、きっと今日もそのつもりで机に向かっているのだ。
 さりさりと、耳に心地良いその音はなかなか止む気配がない。今日はいくらか長く筆を滑らせる心づもりだろう。同田貫は予感する。その長短に関わらず、擦り上げた墨で第一に綴るのは同田貫の名であるのだろうけれど、と鼻を鳴らしたのは、込み上げる気恥ずかしさを誤魔化すためだった。
 毎度毎度飽きもせず、酔狂なことだ。感心しながら寝返りを打った拍子に、布団の奥へと忍び込んできた冷気に震えた同田貫は、一糸纏わぬ体を団子虫のようにちぢこめる。初秋の風は肌にしみた。せめて下着だけでも身に付けるべきか、と毛羽だった畳の上にさまよわせた手を、ひやりとした感触が包む。固く筋ばったそれは男の指だ。薄く覆いかぶさる影を仰げば、弓形に反った月がふたつ、時折まばたきを交えながら同田貫を見下ろしていた。
「すまんな、起こしてしまったか」
 気遣うように言って、男は同田貫の傍らに体を滑り込ませた。ゆるんだ着流しの袷から情事の痕跡が覗く。暗がりにも関わらず、はっきりと見て取れるその痕が、行為の激しさを物語っているようでいたたまれない。すう、と逸らした視線を、男は捕まえようとはしなかった。投げ出した手にかける指はそのままに、自身に背を向け横たわる同田貫にぴたりと寄り添って、乱れた黒髪に鼻先をうずめる。締まった体が密着する。とうに引いた汗が、ふたたび同田貫の額に上る。
「正国」
 耳元を這う声は、すべてを見透かしているかのような甘やかな響きをもって、同田貫の名を呼んだ。同田貫はただ、粟立った手の甲をゆっくりとなぞる男の指を見つめる。指先に付着した墨の名残が、無数の刃創の浮かぶ肌の上に轍を刻んだ。墨を擦り上げるその瞬間の音が、心の奥まった場所でふとよみがえる。
 もう少しだけ、冴え冴えとした音の海に浸っていたかった。そんなことを思う。男の声にたやすく脳髄を蕩かせながら、それでも尚、同田貫は胸のすくような、胸のうわずみを撫ぜられているような感覚を与えてくれるあの音を欲していた。
 肌が湿る。
「――おい」
 諌めるつもりで発した声を、男は気に留めようともしない。無理強いはしないさ、と飄々とした口調で男は言うが、筋ばった指は同田貫の許可などなしに肌をくすぐりはじめていた。くちびるを吸われ、体のやわい部分を幾度となく責め立てられ、やがて膨らんだ熱をねじ込まれても、鼓膜の裏側をなぞるあの音がまだ聴こえる気がした。頭の奥でこだまする。まぶたを閉じてもついてくる。喘いだ声にぶらさがる。どれだけ逃げ惑えど、決して消えることなく付きまとう影のように。


長い影




 銀木犀の咲き誇る庭の一角を通りがかってすぐ、同田貫はにわかに生じた違和感の正体に行き当たった。ひと月にも渡る遠征から帰還して間もなく、どこを目指すともなく邸内をうろついていたそのときのことだ。
 花が枯れている。たったそれだけの事実が、同田貫の目にやたらと奇妙に映ったのは、熟れた色がまぶしい、紅葉の浮かぶ池辺を歩いたばかりだからだろうか。生気なく俯く花弁は、端の方から徐々に変色しはじめている。からりと乾いた周辺の土を見たところ、しばらく水遣りをさぼっているように思えた。このくたびれ具合から察するに、一日二日の騒ぎではない。ひと月前はまだどの花もつぼんでいた。手入れを怠り始めたのは、早くとも花弁が大きく開いた直後からだろう。
 銀木犀の群れは三日月の私室に面した庭先に植えられている。胸騒ぎを振り払うように、同田貫は部屋の前まで足を運んだ。障子の枠を叩く。「三日月さん」名を呼ぶが、返事はない。逡巡ののちに障子を引けば、途端に湿った空気が噴き出してきた。むっとしたにおいに顔を顰めながら見渡した室内は、同田貫が最後に目にしたままの状態を保っていた。出しっぱなしの硯と筆、今にもあふれそうなくずかご。同田貫が本丸を発つ日の朝、張り替えたばかりの畳の真ん中につけた茶染みもくっきりと残っている。たしかあの日、三日月擁する部隊はどこかの戦場へ出陣したのだったか。茶を拭き取った形跡は見当たらず、間近で検分しようと敷居を跨ぐなり、分厚くつもった埃が舞い上がる。秋の日差しを受けて広がる光の粒に、同田貫の背筋を駆け上がるのは不穏な予感だ。
 無人の室内に見切りをつけ、踵を返してすぐ、廊下の奥へと消えていく人影を見た。腰にまで及ぶ銀髪には覚えがある。
「小狐丸!」
 声を張り上げ名を呼ぶと、小狐丸は足を止め、胡乱な目を同田貫へと向けた。振り向いた途端、煩わしげに顰められた表情がわずかに強張ったように見え、思わず怯んだ同田貫だが、しかし目的を果たさんと口を開く。
「なあ、三日月さんがどこに行ったか知らねえか」
 三日月、と口にしたそのとき、ふたたび小狐丸の表情が揺れた。しかし次の瞬間には顎先をつんと尖らせ、澄ました態度で「丁度良いところで会いました」と言い捨てたかと思うと、早足に廊下を進みはじめた。呆気に取られながら、再度三日月の所在を尋ねた同田貫を一瞥するそのまなざしから滲み出す、焦燥にも似た何かにぞくりと肌が粟立つ。全身を這いまわる悪寒の正体に気付いてはならないと、本能が訴えていた。だが、小狐丸を追いかける足を止めることは出来ない。
 やがて小狐丸はとある一室の前で立ち止まった。治療の必要な刀剣男士に宛がわれる、いわゆる手入れ部屋だ。引き開けられた障子戸の向こうにあったのは、生気なく横たわる三日月の姿だった。細く息を吸って、三日月の側へと近寄った同田貫は、くずおれるように膝を突いた。滑らかな頬は死人を彷彿とさせる白さをもって、同田貫に動揺を運ぶ。三日月さん、と小さく呼びかけてみても、返答はない。噴き出す脂汗を拭うことすらままならず、早鐘を打つ心臓を押さえるばかりの同田貫の背後で、小さな溜め息がひとつ、こぼされるのが分かった。
「何も死んではおりませぬ。誤解されぬよう」
 ひどく平坦な小狐丸の声に、動揺に侵されていた同田貫の意識はたちまち浮上する。
 縋るような想いで三日月の様子を窺えば、なるほど、布団に覆われた胸が薄く上下しているのが分かる。とめどなく噴き出す冷たい汗が、ゆっくりと引いていった。安堵に胸を撫で下ろす同田貫を気遣うでもなく、「だがもうひと月近く目覚めておらん」と吐き捨てた小狐丸の柳眉は、醜く歪められていた。
 ひどい悪天候が災いしたのだという。三日月率いる部隊が順調に進軍していた最中、突如として降り始めた雨が地面をぬかるませ、稲光に視界が眩んでいた。退避する間もなく襲い掛かってきた敵軍に背を向けるわけにもいかず、決死の覚悟で交戦を開始した直後のことだったと、搾り出すような声が同田貫の鼓膜を揺らす。敵の一振りに体を引き裂かれた三日月は戦線離脱を余儀なくされたものの、命ばかりは持ちこたえ、主の持ちうる限りの技量をもってして砕けた刃を繋ぎ合わせたのが先の戦での出来事――ちょうど、同田貫が遠征に出て間もなくの出来事だと小狐丸は言った。
「じゃあ、なんで三日月さんは目を覚まさねぇんだ。修復に失敗したってことかよ」
「……私を含め、部隊の皆で砕けた三日月の破片を回収し帰還しました。だが主さまは、刀身の中ほどから切っ先までの刃がいくらか抜け落ちている、と」
「っは……ぬかるんでたって言っても、平坦な土の上だぜ? それなのにあんたらは三日月さんの破片を見落として帰ってきたってのか? まさか、冗談だろ」
 思わず口を突いて出た嫌味たらしい言葉に、小狐丸が眉を顰める。非難したところで何がどうなるわけでもないと、誰が悪いわけでもないと、同田貫とて頭では理解している。それでも際限なく沸き上がってくる怒りを、くちびるは棘だらけの声に変えた。やたらと込み上げる唾液を飲み下すたびに、喉の奥がひどく痛む。
「足りぬ部位は受取箱で眠らせていた二振り目の三日月で補填したそうですが、再刃とそう違わぬ故、どう作用するかは分からぬと主さまはおっしゃる。経過を見る限り、近い内に目覚めはするだろう、とも。ただ……」
 思わせぶりに語尾を濁らせた小狐丸を、追及する気にもなれず、同田貫はむっつりと黙り込んだ。固く握り締めていた拳が、血の気を失っていく。行き場なく畳を突いた同田貫の拳は、死んだように眠りつづける三日月の体をわずかに揺らした。頬にかかる毛束が音もなく滑り落ち、形のいい耳が露になる。肩口までをしっかりと覆い隠す布団の下にある体は、襦袢を纏うのみだった。外傷はない。すん、と啜った鼻腔の奥に饐えたにおいを捉えた同田貫は、何かに突き動かされるように三日月の体を抱き起こすと、「湯浴みさせてくる」と、早口に告げて腰を上げた。物言いたげに口を開いた小狐丸を横目に、部屋をあとにする。
 いやに神経が尖っていた。背中に纏わり付く視線を疎ましく思う自分が、情けなく思えてたまらないが、まだとても冷静にはなれそうもない。誰彼構わず当り散らしてしまいそうな不安定な状態の今、辺りに人気がないのは幸いだった。意識のない三日月の体はひどく重く、上背がある分一人きりで支えるのは困難だったけれど、その重みこそが三日月が生きている証であるような気がして、同田貫の心はゆるりと震える。
 牛歩の歩みで辿り着いた脱衣場はひどく蒸していた。三日月の体から手早く剥ぎ取った襦袢を脱衣籠に放り、同田貫自身もまた、もののついでと衣類を脱ぎ捨てる。浴室へと足を踏み入れると、逆さに積まれた木の桶から滴る水の音を塗り潰すように、自身の湿った足音がこだました。高く、ひたりひたりとやわらかいその音が、毛羽立った心に染み入るようだった。
 空色の壁に縋らせた三日月の体にぬるい湯をかけ、固く絞った手ぬぐいで垢を落としながら、恭しい手つきで清めていく。水滴をはじく、人形めいたその顔を濯ぐついでのようにくちびるを奪って、訳もなく辺りを見回した。ひと月ぶりに触れることを許されたくちびるは、ひんやりと冷たく、いつになくかさついていたけれど、それでも変わらぬ弾力をもって同田貫のくちづけを受け止める。二度、三度と重ねるうちに湿り気を帯び、濃く染まっていくくちびるに罪悪感のようなものを覚えながら、同田貫は手を伸ばした。血の気のない三日月の頬に、濡れそぼった手のひらが吸い付く。
「……なあ、いつまで寝こけてるつもりだよ」
 いけないことをしている気分になるだろうと、呆れたような、拗ねたような声音で三日月を責め、最後にもう一度だけくちづけを落とす。浴室にこだまする冗談めかした自身の声がひどく空々しく思えて、誤魔化すように悪態を吐いた。


 翌日から、長期の遠征で積み重なった疲労を回復するために、と同田貫に与えられた休日は十日間にも及んだ。三日月の体が手入れ部屋から私室へと移されたのは、その休日のはじめのことだ。治療を施すわけでもなし、これ以上手入れ部屋を埋めておくわけにはいかないと主が判断したためである。
 誰に強要されるでもなく、同田貫は与えられた休日のほとんどを三日月の傍らで過ごした。陽も昇りきらぬ内から布団を這い出し、三日月の私室へと向かうと、微動だにせず眠りこけるその様子に気を配りながら日課の鍛錬をこなす。時折、見舞いにやってくる面々――主に三条の刀たち――と他愛のない会話を交わして、銀木犀に水を遣った。三日月に宛がわれた部屋を除き、銀木犀が目に入る位置にある部屋はどこも空室だ。誰が手入れをする気配も見られないのはそれが理由なのだろうと納得し、では花が蕾むまで手入れをしていたのは一体誰なのかということに思い至ると、自然と水遣りが日課となった。水遣りなどついぞしたことがないものだから、歌仙などにはひどく困惑されたし、まさか君が花を愛でる気持ちを持ち合わせていたなんてね、と頬を綻ばせた彼に抱いた、こそばゆいような、後ろめたいような、そんな気持ちを見透かされてしまうのが恐ろしくもあった。慣れぬことはするものではない。こんな花、忘れ形見にするにはあまりに儚すぎるではないかと嘲笑を浮かべて、同田貫は今日も水を遣る。雨の日も、風の日も、決して欠かすことはなかった。三日月にとって、そして同田貫にとって、いくらか有益だろうと信じて憚らなかった。信じる以外、同田貫には何が出来るわけでもなかったのだ。

 三日月宗近専属の世話役、と揶揄する者まで現れるほど、同田貫は三日月と共にあったが、近頃の自分を振り返ってみると、心ここにあらずといった調子でひたすらに虚空を眺めていたように思う。昏々と眠りつづける三日月や辺りの様子からは目を逸らしてばかりで、花が以前より生き生きとしている、と先程小狐丸に指摘されて初めて、見る影もなく萎れていた花弁にふたたび白が宿りだしたことに気がついたほどだ。
 長かった休日も今日で終わる。目覚めたとき、甘やかににおいたつ花の群れを見つけた三日月はどんな顔をするだろうか。そのようなことを考えながら、同田貫はじょうろを傾ける。霧雨を浴びた銀木犀はより強い芳香を辺りに放って、どこからともなく現れた蝶を虜にした。足に絡まる水の粒から逃げ惑うように、蝶はくすんだ羽をばたつかせる。くすみない白に影を落とす鱗粉が、秋の日差しを受けてちらちらと瞬いた。光を内包しているのだろうと小狐丸は言って、同田貫は相槌を返すことも忘れ、ただその光景に見惚れる。
「そういやあのとき、あんた何か言いかけてただろ。三日月さんは近いうちに目覚めるだろうけど、って、そのあとなんて言おうとしたんだ」
 その問いに、小狐丸は何を今更、とでも言いたげな視線を同田貫へ注いだ。同田貫とて今更と感じないでもないが、横たわる三日月と対面したあの日の出来事が、たった今ふと脳裏を過ぎったのだ。あの日小狐丸が見せた、思わせぶりな表情をひとたび思い出してしまうと、どうしてもその先にある言葉を知りたくてたまらなくなる。
「なあ、教えてくれよ」
「……さあ。十日も前に言いかけたことなど、覚えてはおりませぬ。日が経てば忘れてしまうような、その程度のことです。どうせ大した事柄ではないのでしょう」
「小狐丸、おい――」
 ふい、と顔を逸らし、そうして同田貫を拒むように背を向けた小狐丸は、引きとめる声を振り切って歩みはじめる。その去り際、同田貫は小狐丸の横顔に浮かんだ物憂げな表情をしっかりと捉えていた。既視感に、言いようのない不安が込み上げる。軽くなったじょうろから断続的に滴り落ちる水滴が、同田貫の足元をしとしとと濡らした。履き潰した靴に染みが広がっていくにつれて、漠然とした不安感は同田貫の中で大きく膨らんでいった。



 戦が終われば次の戦へ、それも終われば遠い国へと小銭稼ぎに向かい、思い出したように与えられる休日にはひたすら鍛錬に励む。銀木犀の見頃はとうに過ぎ、花は少しずつ散り始めていた。この部屋に見舞いの者が訪れることも減ってしまったな、と同田貫は瞳を翳らせる。
 三日月の体に被さる布団は、数日ほど前、厚みのあるそれと取り替えたばかりだ。襦袢だけではそろそろ寒かろうと、冬場好んで着用していた掻巻も洗濯している真っ最中だった。迫り来る冬の気配にあてられてか、近頃の本丸は随分と慌しい。押し寄せる忙しない空気に、唯一三日月の眠るこの部屋の中だけは干渉されない。まるで聖域のようだと思う。三日月の周囲に立ち込める空気だけが、移ろうことを止めてしまった。出しっぱなしの硯も、今にも溢れそうなくずかごも、消えない茶染みも、すべてがあの日のままだ。
 いずれは目を覚ますだろうと悠長に構える余裕はとうに失せていた。不変など求めてはいない。ただ、どうか目を覚ましてはくれないかと懇望を繰り返す。
 日に日に増していく焦燥を誤魔化すように、同田貫は時折その指に墨を持った。無心に擦りつづけ、さりさりと、胸のうわずみを撫ぜていくその音に浸る。まどろむ意識の端にその音を捉え、小さく揺れる三日月の背中を窺い見るあの瞬間を思い浮かべるだけで、不思議と穏やかな気持ちになれるのだ。そうして何をするでもなく、擦り上げた墨を半紙に吸わせてやりながら、指先を汚す仄暗い色を伸ばして遊ぶ。三日月が目を覚ました暁には、どう迎えてやろう、第一に何を話そう、なんて、そんな他愛もないことを考えている瞬間だけは、まるで進展を見せない現実を忘れることが出来た。近頃、いやに人間めいて来た自分に唾を吐いたその口で、乞うように三日月の名を呼ぶ。静かに横たわる三日月から、声が返ってくることはないと分かっていたから、白くひび割れたそのくちびるを幾度か吸った。
 あと十日もせぬ内に、夜空へ三日月が巡ってくる。仄暗く、遠い空に想いを馳せるのはもう終わりにしたい。しかし切な願いはついぞ声になることなく、その夜を迎えることとなった。

 明朝降りしきった雨の名残で、立ち込める空気はしっとりと湿り気を帯びていた。薄く開いた障子の隙間から、同田貫は月を見上げる。今夜の風は肌を刺すように鋭く、冷たい。微動だにせず眠る三日月の顎先まで布団を引き上げてやり、ふたたび空へと視線を返す。
 やはり今日も、三日月が目覚める気配はなかった。濡れた芝生を照らす青い光を愉しむことも出来ず、ただ、ぼんやりと物思いに耽る。剥き出しの足首をすり合わせながら障子戸に凭れていた同田貫は、いつしかそのまぶたを伏せていた。うつらうつらと船を漕いでいた意識が、深い眠りへと誘われていく。
 とりとめもない夢が同田貫の脳内を駆け巡った。不意に響いた物音に目を覚ましたのは、戦場の真ん中でぽつりと佇むばかりの味気ない夢へと行き着いたその直後のことだ。回らぬ頭で見渡した室内に、三日月がふたつ浮かんでいる。心の臓をしまいこんだ胸奥が、一瞬、大きく膨らむ。息を飲む同田貫をからかうように、月が二度、三度とまたたき、やがて部屋の中ほどに昇った。三日月がようやく目を覚ましたのだと気付いた途端、辺りに降りるのっぺりとした闇が薄らいだ。
「……よぉ、もう夜だぜ」
 どう声をかけるべきだろうかと、思案を巡らせるより早く、同田貫のくちびるから声が漏れだす。まっしろに染まる頭の中を『後悔』の二文字が駆けていったけれど、大袈裟に飾り立てた言葉など要らない気がして口をつぐむ。自分が自分でないような、ひどく強張った表情を浮かべながらも、その胸は歓喜に跳び跳ねていた。静かな夜が、たちまち喧騒に包まれる。耳の奥で鳴り渡る音はどくどくと重く、忙しなく、そして幸福感に満ちていた。
 ややあって、三日月は呆けた声で「ああ、寝過ごしたか」と発する。まだ寝ぼけているのだろうか。行灯に火をくべ、その顔を照らすと、三日月は双眸を眇め同田貫をを見遣った。久方ぶりにかち合う視線に、同田貫の肌はぞくりと粟立つ。堪えたはずの言葉が次から次に溢れだしそうだ、とくちびるを噛んだ同田貫は、目尻がじわりと赤らむのを感じながら三日月を見据えた。三日月の表情がにわかに曇る。
「つかぬことを聞くが、ここは一体どこだろうか」
 そう言って不審げに辺りを見渡した三日月は、困惑も露に柳眉を寄せる。行灯を高く翳してやるが、三日月の表情は一向に晴れる様子がなく、眇められた瞳には警戒心が滲んでいた。やがてその視線は、同田貫へとまっすぐに注がれる。
 次の瞬間、三日月が発した言葉をすぐには理解出来なかった。呆然と見開かれた同田貫の双眸を、鋭い視線が射抜き、そうしてふたたび三日月はくちびるを開く。
「――お前の名は?」
 灯したばかりの火が消える。鈍い衝撃と共に転がり落ちた行灯を、青白い月が見下ろしていた。



 小狐丸を見遣れば、いくらと間をおかずに「久しいなあ」と頬を綻ばせ、主が幾人かの名を上げれば、「旧知の仲だ」と頷く。だが、神妙な面持ちで座した同田貫について問われた途端、三日月は考え込むような仕草をしてみせた。指先で顎をさすり、ああ、と小さな声を上げた直後、その口元を緩める。
「同田貫だろう? 俺が床に臥している間、世話役を担っていたと言ったな。なに、つい先程聞いたばかりの名を忘れるほど老いてはおらんさ」
 からからと笑みをこぼし嘯く三日月とは対照的に、同田貫の表情は優れなかった。その言葉が示す事態を理解出来ぬほど足りぬ頭の持ち主ならば、どれだけ良かっただろうかと舌を打つ。次第に朝の気配を強めていく室内には、ひどく重苦しい空気が立ち込めていた。夜半に叩き起こされ、着の身着のままを余儀なくされた小狐丸は億劫げに息を吐き、主もまた、それに倣う。
 集う三人の間に、ひとつの疑念が渦巻いていた。ひとり平然とした様子の三日月といくつかの問答を交わすうち、主は確信めいたものを感じたようで、そうしてそれは、同田貫の目にも明らかな事実だった。
「あんた、もしかして記憶がねぇのか」
 絶望に満ちたひどい声だと、同田貫はどこか他人事のように思う。妙に惚けた、「はて」という三日月の応答が、その悲惨さをよりいっそう際立たせていた。何故そうも暢気に構えていられるのかと、腹立たしさに急かされるがまま三日月を睨みつける同田貫だったが、すぐにその気が削がれてしまうほど、彼は屈託のない表情を浮かべている。この苛立ちを察せぬほど鈍くもなかろうにと、行き場のない怒りを畳にぶつけて初めて、三日月の顔付きが一変したように思えた。
 刃を再生した際、おそらくは回収しきれなかった刀身の一部が原因で、顕現された当時から現在に至るまでの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまった、というのが主の見解だ。現代に呼び起こされるそのずっと以前――自身の生まれた平安の頃や、通り過ぎた幾多の時代の記憶は淀みなく遡れる様子だが、肉の器を得て以降に差し掛かると三日月はたちまち首を傾げてしまう。
 細く長く息を吐くその音が、しんと静まり返った室内に大きく響き渡る。同田貫はただ、徐々に加速していく息苦しさに冷や汗を浮かべながら、全身を包み込む虚無感に呆然とするばかりだった。いささか信じがたい現実を前に、みっともなく項垂れる。
「……今決めつけるのは早計じゃねぇか。もしかしたら目を覚ましたばっかで寝惚けてるだけなのかもしれねぇ」
 重い沈黙を破り、同田貫は自らに言い聞かせるような調子で声を絞り出した。それは本心から出た言葉であり、根拠のない願望でもあった。一瞥した三日月の貌が以前よりいくらか作り物めいている気がして、同田貫はひとりぞっとする。座しているのはたしかに三日月宗近その人であるのに、記憶の喪失が判明した瞬間から、まるで別人であるかのような錯覚に囚われていた。はたして三日月は、その双眸にこんなにも無機質な色を宿す男だったろうか。品定めするかのように、同田貫の頭の先から足の先までをゆっくりと上下するまなざしに、知らず知らず脂汗が滲む。
「……主さま、見たところ三日月はまだ顔色が悪い。しばらくは邸に留まらせ、経過を見てはと思うのですが。記憶についても、肉の器の状態が万全でないことが関係しているのやもしれませぬ。同田貫の意見も一理あるかと」
 恭しい態度をもって進言する小狐丸に、同田貫は目を瞠る。まさか同調されるとは、と戸惑う反面、安堵を隠しきれない同田貫を余所に、主は逡巡するような素振りを見せた。
「俺はまあ、かまわんぞ」と、どこか他人事のような声を上げた三日月に後押しされるかたちで、やがて主は大きく頷いた。刀以上に刀のことを知り尽くした主からしても、この状態が一時的なものであるという可能性を捨てきれないという何よりの証明だ。絶望から一転、射し入った希望の光が同田貫の心を静めていく。
 だが、じきに記憶は蘇るはずだと楽観視する半面、はたしてそう上手くいくだろうかと疑う自分がいることもまた事実だった。同田貫自身が発した、『まだ寝惚けているだけ』という言葉がひどく空々しく思えた。漠然とした不安が胸元につかえ、歪に膨らんでいく。
 陽が昇りきるまで今一度身を休めろと、解散を命じられた同田貫たちは、散り散りに私室へと向かった。廊下の向こうに消えていった瑠璃色の影を目で追いながら、あてもなく自室へと足を運んだ同田貫だが、しかし耳を劈くような静寂の中にいくらも身を置いてはおけず、刀を手に取り庭先へと飛び出す。明けの空はぼんやりと滲み、混沌とした色合いをもって同田貫を見下ろしていた。
 どろりと、視界に映るすべてが溶けていくような、煮えたぎる蝋の中に放り込まれたような、奇妙な感覚を掻き消さんと柄を握る。乱れた心を鎮めるためには、何よりも刃を振るえば良いのだと誰に教えられるでもなく理解していた。無骨なその切っ先で風を凪げば、胸に蔓延る靄は何事もなかったかのように消えていく。これまでもこれからもその事実が揺らぐことはなく、例外などあるはずもないと、同田貫は信じていた。前方を見据え、すべての雑念を掻き消すように空を斬りつける。何度も、何度も、その回数を数えることが億劫になるほど、同田貫は両の腕を振りつづけた。
 しばらくのち、背後に位置する邸から響きはじめた喧騒を聞くともなしに聞きながら、同田貫は素振りに没頭する。額から、喉元から、とめどなく噴き出す汗とは対照的に、いつまでも滞ったままの靄に苛立ちを覚えはじめて数刻が経過した頃、近付く気配にふと手を止めた。
「……昼餉の支度が整いましたよ」
 振り向いた先にあったのは宗三左文字の姿だ。気だるげな声に似合いの陰鬱な表情を宿した宗三は、縦縞の着物から覗く棒切れのような腕をさすり、呼吸を荒らげた同田貫を窺い見る。奇妙な生き物でも観察するかのような宗三の視線に気付かぬふりで「おう」とだけ返し、同田貫は刀を納めた。殺風景な庭先に、ちん、と小気味の良い音が響く。
 同田貫を待たずして邸へと足を向ける宗三の後ろ髪が、陽気をのせた風に吹かれてなびいた。甘い花の香りに混じるのは、支度の際に移った昼餉のにおいだろう。そのにおいを捉えてはじめて空腹を自覚した同田貫だったが、腹部が獣じみた呻き声を漏らすわりに食欲はない。その原因として思い当たることと言えばひとつきりで、思わず表情を曇らせた同田貫の耳に、「おや」と驚愕に彩られた声が飛び込んでくる。
 宗三の視線の先、広間へと続く縁側には、静々と歩く見知った男の背中がある。三日月だ。うっすらと青みがかった髪を飾る房紐が、歩を進めるたびにちらちらと揺れる様子を見つめながら、訳もなく息を殺す。どうか振り向いてくれるな。切望する同田貫を嘲笑うかのように、三日月は足を止めた。庭先を一瞥し、同田貫の姿を捉えた三日月は、しかし視線を留まらせることなく宗三の方を見遣る。
「昨晩目を覚ましたとは聞き及んでいましたが、もう満足に動けるのですね。貴方には粥を、と主から仰せつかったのですけれど」
「主が言っていた当番の者か。いや、手を煩わせてしまってすまんな」
「ええ、本当に。支度は済んでいますから、広間で摂られるのならご自分であたため直していただけますか?」
 縁側に手を突き、草履を脱ぎながら宗三は言う。三日月はぞんざいな扱いに気を悪くした風ではなく、むしろ冷え切った態度を面白がっているようにも見えた。
 口元をゆるめ、双眸を眇めた愉快げな表情には覚えがある。好奇心に満ち満ちたあの視線を、表情を、同田貫はこれまで幾度にも渡って目にしてきた。同田貫の姿が視界の外に追いやられていることを除けば、それは以前と何ら変わりのない光景だ。広間へと吸い込まれていく背中に強いまなざしを向けても、三日月が足を止めることはない。その事実は同田貫にとってひどく新鮮で、そうして衝撃的でもあった。少しだけ乱暴な動作で砂ぼこりの浮かんだ縁側へと上った同田貫を、ちらりと振り返った三日月の目付きに居たたまれない心地で、目を伏せる。知らぬ男の貌だ。あれは、知らぬ男だ。胸の内で繰り返しながら、同田貫は総毛立つ自身の体をひっそりと縮こまらせた。

 夕餉を迎える頃にもなると、三日月に起こった異変は周知のものとなっていた。記憶の欠落を知らされた直後、各人のとった反応は様々だったが、悲しむ者は決して少なくなかった。畳張りの広間の中心で、二列に並べられた膳の前へと思い思いに腰を下ろし、三日月に気遣うような視線を向ける者の姿が目立つ中、今剣の態度だけが異様に浮き出て見える。膳を挟み、三日月の目の前に立ち尽くす今剣は、ほんとうにおぼえていないのですか、と先程から詰問を繰り返していた。岩融に縋りつき、時折なぜなぜと駄々を捏ねながら、戦場で見せる厳しい目つきを彷彿とさせるそれで三日月を射抜く。
「この邸で生活を始めて以降の記憶はたしかに消えてしまったが、今剣のことは忘れてはおらんぞ。同じ三条の刀ではないか、岩融や石切丸とて同様だ」
 三日月は宥めるように笑うが、その態度が神経を逆撫でてしまった様子で、今剣の眉は見る見る内に釣り上がっていく。鼻息も荒く、「いいえ、みかづきはわすれています」と首を振った今剣の眦に差された紅が、いつもより深い色に染まっている。
「ぼくがすきなたべものがなにかわかりますか? ぼくがはじめて『誉』をもらったのは? みかづきをたんとうしたのがぼくだってことも、おぼえてはいないでしょう? だからあなたはみかづきじゃないんです。ぼくのすきなみかづきは、ぜんぶしっています、ぜんぶこたえられます」
 頬から、鼻から、肌という肌を真っ赤に染め上げる今剣に、三日月は目を瞬かせた。戸惑う三日月の様子に、今剣の表情はますます切なげに歪んでいく。
 何も記憶が戻らぬと決まったわけではない、きっとすぐに元通りになるさ、そのときまで答え合わせはおあずけだな、――宥める声があちこちから上がる。
 開け放した障子の向こうから覗く、宵の月を眺めながら、同田貫はそれらをさも我が身に送られた言葉であるかのように噛み締めていた。広間に充満する、妙に気詰まりな空気をものともせず、淡々と食事を摂る者たちに混じりながら、三日月の元へと密かに意識を傾ける。やがて皆に取り成されるかたちで口を噤んだ今剣は、三日月の座した位置からは少し離れた、奇しくも同田貫の隣席にあたるそこに尻を落ち着けた。同田貫の手元に置かれた枡になみなみと注がれた酒を舐めて、おいしくないです、と不貞腐れた顔をするあどけない横顔を盗み見る。
「……みかづきだけど、みかづきじゃないです。だってみかづきは、みかづきは――」
 誰にともなく呟く今剣の声は、やがて喉奥へと吸い込まれていく。言いあぐねた言葉ごと飲み干した酒に噎せ、うっすらと涙を浮かべながら咳き込む姿を、同田貫はただ沈痛な面持ちで見守るほかなかった。
 やがて、慣れぬ酒に目を回した今剣が岩融の手により連れだされたのを皮切りに、広間からはちらほらと人の姿が消えていく。広々とした室内に残るのは、三日月に小狐丸、つい先程手入れ部屋を出てきたばかりの石切丸に、同田貫を加えた若干四名のみだ。
 顕現されてからこちらの記憶を持たない三日月にとって、三条の面々とは久方ぶりの再会になるのだろう。積もる話もあるのか、いつになく饒舌な三日月の姿を見ていると、同田貫は自分がひどく場違いな存在であるような気がした。器に残された煮物を手早く平らげ、そそくさとその場を立ち去る。広間を出る直前、後ろ髪を引かれる思いで背後を見遣った同田貫を、三日月が気のない表情で見つめていた。一瞬、息を飲んで、視線をふらりと空に流す。月明かりに照らされた縁側を早足に進みながら、ふと広間を振り返ってしまう自分の女々しさに苛立ちを覚え、同田貫は足元を蹴りつけた。

 一夜が明けても尚、三日月の記憶にこれといった変化は見られず、同田貫の焦燥は募るばかりだった。顔色もやはり芳しくなかったが、三日月本人が申告するに体調はすこぶる良好で、日がな一日邸に籠りきっての『療養』に早くも不満を漏らす始末だ。
 それでも初めのうちは主の命に従順であった三日月も、無味乾燥な生活が九日、十日と続く内に堪えきれなくなったのか、しばしば私室を抜け出すようになった。とは言えその振る舞いは堂々たるもので、主に咎められようと「なにも俺は病に臥しているわけではないのだ。すぐさま戦に出せとは言わん、だが自由に動き回るくらいの権利は与えられて然るべきだろう?」などと、悠々とした態度を崩そうとはしない。
「それに、負傷するまでと同様の生活を送ったほうが何かと都合が良いのではないか? なくした記憶とやらも、きっかけなくしてはそう蘇らんだろう。部屋に籠もりきりでは体も鈍ってしまうしな」
 悪びれるどころか上手く主を言いくるめた三日月は、木枯らしが吹きすさぶ師走の頃に足を掛けてまもなく、晴れて自由の身と相成ったのだ。

「ほうれん草に、小松菜。それからあとひとつ、何を植えるのだったか。たしか夏には収穫出来る野菜だと言っていた気がするが」
「知らぬ。そんなことより手を動かせ、この調子ではいつまで経っても終わらんぞ」
「なんだ小狐丸、お前も知らぬのか。たしか種を寄越したのは歌仙だったな。仕方がない、夕餉の席で聞いてみるか」
 小狐丸の注意を聞いているのかいないのか、三日月は暢気な様子で畑に立っていた。時折、しゃがみこんで雑草を引き抜いたり、土を均したりと、仕事を疎かにしている風ではないが、せかせかと働く小狐丸と比べるとその手つきは随分のんびりしている。鍬を手に、黙々と作業を続けている同田貫もまた、進捗のほどは芳しくない。長柄を振り上げ土を穿ちながら、今朝からもうずっと三日月の背中ばかりを見ている。これでは終わるものも終わらないと呆れながらも、同田貫はなかなか視線を逸らせずにいた。
 見よう見まねで畑を弄り、時に手隙の者を捕まえ手合わせに興じる日々を重ねていく内に、三日月はこの邸での生活に順応しつつあった。他の刀剣たちとの関係もすこぶる良好なようで、記憶を失う以前は親交の浅かった宗三や江雪、歌仙らと談笑する姿をたびたび見かける。根が土に馴染んでいくのと同じ速度で、三日月は受け入れられ、本丸に溶け込んでいった。
 同田貫の抗言もあり、出陣こそ許されてはいないものの、その最後の砦も早ければ年を越える前に崩れてしまうだろうと予感していた。三日月の肉体にこれといった欠陥は見られなかったし、性格や言動に大きな変化があるわけでもない。当然と言うべきか、刀の扱いは見事なもので、顕現して以降磨きあげてきた腕が衰えている様子もなかった。記憶だけなのだ。この本丸で積み重ねてきた記憶だけが、三日月の中からすっぽりと抜け落ちている。そうしてそれは、刀として生きていく上で不可欠なものではなかった。敵を屠り、制圧することこそが刀剣に課せられた使命だ。誰を愛し、睦み合い、どれだけの時間を共に過ごしたかなど、忘れ果てたところで使命をこなすに支障はない。その事実がやるせなく、もどかしい。依然停滞したままの現状を憂い、誰かと楽しげに笑い合う三日月の姿を目にするたびに、自分たちはなんと虚しい生き物なのだろうと忌々しさすら覚えながら、同田貫は淡々と日々を消化していた。
「しかし畑を耕すのがこんなにも骨の折れる仕事だったとはなあ。妙な場所に力が入ってたまらん」
「口より手を動かせと言うておるだろう。陽が落ちるまでに種蒔きを終わらせねば、また明日も泥まみれだ。毛艶が悪くなるどころの騒ぎではないわ」
 くたびれた様子で腰に手を遣る三日月を、小狐丸がどやす。引き抜いたばかりの雑草を畑から蹴りだしながら、小狐丸は苛々と頭を振った。束ねた髪の毛先は土色に染まり、両の手足も随分とひどい有様だ。三日月もまた、体のあちこちに泥を撥ねさせてはいたが、さして気にした様子もない。
 快晴の空が、三日月をじっと見下ろしている。以前より痩せた体躯を陽のもとに晒すと、ほっそりとした体の線がいっそう際立って見えた。この頃は食欲も戻りつつあると聞く。食事を摂り、何気ない日常生活を送る内に、わずかに痩けた頬もすっかり元に戻ってしまうだろう。戦場に倒れ、長い眠りについた痕跡もまた、泡と消える。
「まあそう急くな。焦らずとも、三馬力で行けばどうにかなるだろう。なあ、同田貫」
 言いながら、三日月はふと同田貫を振り返る。不意を突かれ、鍬を取り落とした同田貫を見つめる三日月の頬には、やわらかな笑みがたたえられていた。ゆるく反ったくちびるに、細められた眦に、頬にかかる色に、胸を綻ばせてしまう自分が疎ましく、「おう」なんて気の利かない返答をして目線を伏せる。
「……あんたなんか、三日月さんじゃねぇ」
 小さく、自らに言い含めたその言葉を噛み締めながら、同田貫は鍬を振り上げた。ゆっくりと西に傾きはじめた日差しが、影を作る。饒舌をふるう三日月の足元から伸びた影を、墨色の爪先で蹴散らすその音が、冬空の下にむなしく響き渡った。