林檎のやまい


 待ってくれ、と頼りない声を発するより早く、三日月の動きが止まる。同田貫の顎先を掴まえる指が、躊躇いを乗せた仕草で引かれ、やがてその身ごとゆっくりと後退していった。
「っはあ……」
 暗がりにこぼれた熱っぽい吐息は、はたしてどちらのものだろうか。障子をすり抜け届く月明かりに照らされて、薄らぼんやりと浮かび上がる三日月の輪郭が色付いているのが分かる。滑らかな頬に滲む朱をからかってやれたなら良かったのだが、生憎と今の同田貫はそのような余裕を持ち合わせてはいなかった。
 涼しい夜だ。降りしきる、霧のように細かな雨が夜風に絡み、邸中にひんやりとした空気を送り込む。涼やかな風に乗って、蛙の鳴き声が断続的に届いた。三日月が背を向ける障子戸は、その立て付けの悪さから拳ひとつ分の空間を残し閉めきれないままだ。寝巻きの合間を縫い、肌の上を走り抜ける冷気に同田貫は身を震わせた。しっとりと汗ばんだ体から徐々に温度が奪われていく。それだというのに、頬に昇った熱ばかりは一向に冷める気配を見せないのだから不思議だ。
 一組の布団の上で胡座を掻き、二人が向かい合ってどれくらいの時間が過ぎただろう。紺碧の双眸に映り込む、情けないくらい顔を火照らせた自身と視線がかち合うたび、同田貫は思いきり叫びだしたいような、ここから逃げ出したいような、そんな気分になる。引き留めるばかりで物言わぬ湿ったまなざしから、しかし目を逸らすことは叶わずに瞬きを繰り返すほかない。悩ましげに垂れた三日月の眦が、紅を差したように濃く染まっているのが美しいと思う。艶やかだと思う。そうして、恥ずかしいとも思う。
 うぶな表情に羞恥を煽られながら、同田貫は細く息を吐いた。こんなはずではなかったのに、なかなかどうして人の身は不便でややこしい。先程からそんなことばかり考えている。三日月に負けず劣らず真っ赤に染まる自身の頬を訳もなく叩いて、ままならぬ現状を嘆いた。

 そもそもの発端はあの夜にあるのだと思う。酒の力に乗せられて、三日月へと一心に注ぎ続けていた恋慕をついに吐き出してしまったあの夜だ。
 三日月は同田貫の想いを受け止めてくれたし、受け入れてもくれた。二人の関係にはこそばゆい名前がついて、幾年に渡る片恋の顛末を知った御手杵や鶴丸に、随分とあけすけな言葉で冷やかされもした。それはとても幸福な誤算で、ほんの一瞬たりとも後悔の念を抱いたことはない。だがしかし、やはりそれ以来同田貫は――いや、同田貫と三日月は、ままならない心と体に振り回されるようになってしまったのだ。
 例えるなら、三日月は冬の朝のような男だった。
 からりと晴れ渡る色褪せた空と、肌に凍みる冴え冴えとした空気。午後にさしかかる頃、張りつめた弓の弦がゆるむみたいに陽がぬくみ、薄く積もった雪を溶かしはじめるあの瞬間を、三日月の側にいればいつだって間近に感じられた。同田貫は冬の朝が好きだ。剥き出しの頬や鼻先をぴりぴりと乾かしていく鋭い冷気が好きで、ふいに撓む温度が好きで、そうして三日月が好きだった。
 だからと言うべきだろう。交際を始めた直後から、徐々に変わりはじめた三日月の雰囲気に、同田貫はひどく戸惑った。こんなにもやわらかく笑う男だったろうか、こんなにもゆるやかな声音で話す男だったろうか、この男は何故こんなにも、こんなにも――。
 日を重ねるごとに漠然とした違和感は大きくなり、同田貫の愛した薄雪の季節が終わりを告げる頃にもなると、三日月の纏う空気はすっかりと様変わりしてしまっていた。研ぎ澄まされた剣さばきはそのままに、戦から離れ、なんでもない日常を送るその姿だけが以前とは違う。何故、と疑問に思えど、それは決して受け入れられぬ変化ではなかった。不快でもなく、耐え難くもなく、ただ少しだけ寂しく感じられる。そんな変化だ。
 主は何も変わらぬと言う。御手杵は思い過ごしだと言う。鶴丸だけが一人、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「それは君、他の誰かに分かるはずないだろう。君だって、もう気持ちを押し留めておけなくなったから酔った勢いで本音を吐露してしまったんだろ? それと同じさ」
 あふれてるんだよ、とほっそりとした指が胸を叩く様子を、同田貫は呆けた顔で見つめた。
 一拍、二拍、三拍――。
 ぽっ、と火が点いたように全身が熱くなる。見る見るうちに色を上らせていく同田貫の顔を、鶴丸はその透けるような白い頬に悪戯っぽい笑みを浮かべ眺めていた。今の二人の間に生まれた対比を、端から見たなら随分とめでたい気分に浸れるのだろう。なんだかそのようなことを思って、同田貫は茹っていく頭を抱えた。
 三日月の仕草、表情、それらすべてに滲む恋情にひとたび気付いてしまうと、とても平静を保ってはいられなかった。
 同田貫へとまっすぐに注がれる視線が、好き、と告げる。照れ臭そうに伏せられたまぶたが控えめに、好き、を浮かべる。誤魔化すように弧を描く唇にも、好き、が滲む。三日月は声もなく恋を囁き、同田貫を翻弄した。然り気無さを装って肩を抱かれたときの、宝物を扱うような手つきに喉が渇き、やたらと胸が鳴る。体が馬鹿になってしまったのでは、と危惧するほどの過敏な反応に初めは首を傾げていた三日月も、とうとう観念した同田貫が「恥ずかしいんだよ……」と情けなく語尾を震わせたことで悟ったようだった。
 本人にそのつもりはないのだと思う。さっと走った朱が何よりの証拠で、だがその事実は同田貫の羞恥をますます煽った。気が付いていないだけで、同田貫の一挙一動にもまた、同じように三日月への恋情が滲みあふれでているのではという懸念が過ったのだ。
 藍色の彼に、同田貫はこれまでどんなまなざしを向け、どのように接してきただろう。ぐるりと想いを巡らせるが、底を浚うのは容易ではない。初々しさなど消え果ててしまうほど長い間あたため続けた恋なのに、同田貫は知らなかった。恋はこんなにも恥ずかしい。知りたくなかった、知らないままで良かった。けれどもう、知らぬ頃には戻れなかった。湿った吐息が、二人のくちびるからこぼれ落ちる。
 通りがかりのにっかりが、大きい椿と小さい椿が二輪、あんなところに並んで咲いている、なんていやらしく笑った。二人は顔を火照らせ俯くばかりで、立ち込める空気を揶揄っぽい声がこれでもかと震わせても、おもてを上げることは叶わなかった。
 それがきっかけとなったのかは定かではない。けれど三日月はたしかにその頃から、爪先同士が掠めるだけで照れ臭そうにはにかむようになったし、同田貫の頬に触れたり、髪を撫ぜることを恥じらうようになった。きっと二人にとってなんでもない行為だったそれらが、三日月の中で、同田貫の中で鮮烈な赤に染まる。色は伝染を繰り返して、たびたび二人の頬に上った。
 君たちは禁断の実を齧ってしまったんだね、と誰かが笑い、ここには悪戯好きの蛇がいるからなあ、と溜め息をこぼす。恋だの愛だのについて他人に相談するのは性に合わなかったし、興味津々といった視線を向けられる機会がやたらと多くて憂鬱だ。知らぬは本人ばかりなりとはよく言ったもので、二人が恋仲であることは周知の事実なのだと悟ってしまうと、ますます気が滅入った。一体どこから話が漏れたのだろうと憤る同田貫を一瞥し、口角を吊り上げた鶴丸の顔がまぶたに焼きついて離れない。
 うぶに見つめ合うだけで精一杯なまま、二人はいくつかの季節を越えた。雨の頃を迎えるのはこれで何度目になるかと、来たる夏に備えたっぷりと水を蓄える?の木を眺め、息を吐く。
 前に進むことも後ろに退がることもない関係に、同田貫はもどかしさを感じずにはいられなかった。なにも羞恥に身を焦がすその感覚を嫌っているわけではない。胸元からじわりと広がる熱に侵されていく感覚は、ときに強烈な陶酔をもたらしてくれた。だがその裏で物足りなさを覚えているのもまた事実で、三日月と逢瀬を重ねるたび、指に指を絡ませられたならと思う。くちびるを合わせ、抱き合って、睦言のひとつでも交わせたならと気は急いて、しかし結局は赤く染まった頬を誤魔化すことしか出来なかった。愛おしさが枷になり、思考をすべて絡め取る。そうして何もかもままならないと頭を抱えるはめになるのだ。

 灯りもないこの閨で、俺に触れられるのは嫌か、と尋ねられたそのときも、同田貫はすぐに首を横には振れなかった。喉奥に声が詰まる。どうすればこの気持ちが伝わるだろうかと視線を彷徨わせ、表情を曇らせる三日月の手を取った。そのまま自らの左胸へと導けば、筋張った指がひくりと震える。
「……頭が、馬鹿になりそうなだけだ」
 ぼそぼそと呟いて、ぬくむ顔を扇いだ。わずかに湿り気を帯びた三日月の手のひらが、寝巻き越しに密着する。熱は冷めない。それどころかたちまち上昇しはじめる体温に、ああまただ、と眉を寄せる。どうしたって三日月の前では冷静じゃいられない。目に、肌に、吐く息に、滲み出す。好き、が心を掻き乱して、たまらなくなる。
 どれくらいそうしていたか、やがて三日月は「俺もだ」と小さく笑って同田貫を真似た。導かれるがままに触れた胸の奥で、心臓が激しく脈打っているのが分かった。自分のそれとよく似た速さで乱れる鼓動に、同田貫はひどく安堵する――そうして今に至るのだった。
「たぬ、お前に触れたい」
 意を決したようにふたたび身を寄せてきた三日月は、秀でた額を同田貫のそれにぶつけ、掠れた声で囁いた。ひそやかな欲望を隠そうとしているのか、雨音がにわかに強まる。風は膨らんだ雨に溶かされてしまったのだろう、震えていた障子戸がその動きを止めた。二人の体を見えない膜が包み、くらくらと眩暈がしそうなほど蒸した空気が立ち上る。
 合わさった三日月の額はしっとりと汗ばんでいたから、気障な物言いもなんだか可笑しく思えた。これ以上の言葉は邪魔な気がして、恥じらいを振り切るように顎先を反らす。羽のように軽くやわらかな睫毛が触れ合って、くちびるがあとを追った。ふ、と触れ、すぐに離れる。初めてのくちづけはぬるかった。交わる吐息のほうがよほど熱くて、二人して小さく噴き出してしまう。ほんの一瞬で終わってしまう、くちびるを重ねるだけの呆気ない行為がこんなにも恥ずかしくて、こんなにも愛おしい。
 瞬く月夜の瞳から逃げるみたいにまぶたを伏せて、上げて、ぶつかる視線に頬を熱くする。激しく跳ねる互いの心音に苦笑を忍ばせる。そんな戯れの合間に、ふたたびくちづけをした。一度目よりほんのわずかに長く、そうして深く、三度目は薄いくちびるを食んで、四度目はそのやわらかな感触に酔いしれた。
 なんて幼いくちづけだろうと思う。けれど、熱に浮かされた声で「あつい」と漏らせば、「あついな」と返ってくることが同田貫には何よりもしあわせに感じられて、呼吸を忘れてしまいそうなほど激しいくちづけはいらないのだとも思った。湿りはじめた夜には似合わないあどけなさで、互いのくちびるに触れる。
 どこかぎこちないくちづけの応酬は息苦しさをもたらしはなかったが、同田貫は溺れているような、酩酊感にも似た不思議な感覚に囚われていた。重なったくちびるから、砂糖でくるまれた甘ったるい恋情が流れ込んでくる。飲み込みきれない歯がゆさに、三日月の胸元へ指をすがらせ喘いだ。体中が、熱い。触れた箇所から溶けあってひとつになってしまいそうで恐ろしく、渦巻く熱に額を濡らす。淡く色づき、かさついたそこがほんのりと濡れはじめた頃、二人はようやく啄ばむのを止めた。
 気をどこかに遣ってしまいそうだ、と朦朧とした意識のまま呟けば、三日月の指が頬に浮かんだ汗を拭ってくれる。躊躇いがちな仕草で、耳たぶの辺りを爪先がくすぐるから、同田貫は込み上げた唾液をごくりと飲み下した。抑えきれない、とまなざしで告げないでくれと責めたかった。生娘さながらに恥じらいを滲ませる、悩ましげな表情の三日月に、粘ついた視線を向ける。
「なあ、たぬや。これでは足りぬと言う俺を、浅ましいと思うか?」
 らしくもない声が同田貫の鼓膜を撫ぜた。透ける欲に息を詰め、これ以上はおかしくなっちまう、と回らぬ舌で言葉を返す。そのおぼこさに大きな差などないだろうに、「俺も同じだ」とはにかむのはずるいと思った。
 ふたたび、三日月がそのくちびるに問いを乗せたから、同田貫はかすかな期待を悟られぬようゆっくりと首を振る。はたして羞恥で人は殺せるのだろうかと、なんだかそのようなことを火照る頭に巡らせた。紺碧の双眸にくっきりと映り込む熟れすぎた果実の色から逃れるみたいに、くちづけの雨が一粒落ちるその瞬間、そっとまぶたを伏せた。