同田貫が出会った頃、既に三日月は壊れ始めていたのだと思う。
最初の異変は二人が関係を持った日の翌日、まだ陽も昇りきらない早朝のことだ。
寝ぼけ眼の同田貫が目にしたのは、何も身につけていない互いの体を見遣り、どこか間の抜けた顔で首を傾げる三日月の姿だった。
「――何故たぬきがここに?」
惚けているのだろうか、そう思いながら腕を引いて、睡魔に導かれるままに再び目を閉じる。改めて目覚めた際にも同じ問いを投げかけられたので「なかったことにしてぇのかよ」と逆に質問を返してみれば、三日月は曖昧に笑んで首を傾げた。
「裸で一つの布団に包まる理由に、こういうこと以外何があんだよ」
腹立たしさに任せて、同田貫は三日月の性器を慣れぬ口技で育てた。荒い呼吸の合間にもう一度「なかったことにするんだな」と問う。昨夜の名残でぐずぐずに蕩けた後孔にその怒張を受け入れたところで、三日月はようやく首を振って同田貫を掻き抱いた。
二度目の異変はそれからずっと後、季節がぐるりと一巡した頃だったか。燭台切がある疑念を漏らしたことで明るみとなった。
「三日月さん、多分もう何日も食事を摂っていないんじゃないかな」
燭台切はこの本丸の炊事を実質すべて取り仕切っていたし、食事の配膳に関しても同様だ。各々が使用する食器は几帳面に色分けし、献立に関しても刀剣ごとに微妙な差異をつけているらしい。それは各自の嗜好のよるものが大半で、こと三日月に関しては他と同じ味付けでは少々濃すぎるという理由から特別に仕立てているのだそうだ。
それがしばらく手付かずで炊事場に残っていると、彼はそう訴えていた。
「食事の時間なんてまちまちだしね、本当のところは分からないよ。誰か他の子の膳を選んでいるとも考えられるけど、それもまた奇妙だし……。本人に聞いても『食べた』の一点張りなんだ」
「……つまり、俺からじいさんに改めて聞いてみればいいんだな」
「うん、まあそういうこと。同田貫くん相手ならきっと嘘なんて吐かないだろうしね。あっ、何か理由がありそうならそれとなく探っておいてくれない? 美味しくないとか、調子が悪いとかさ。もう少し食べやすいものを作ってあげることくらいなら出来るから」
彼の言葉を反芻しながら本丸最奥に位置する間を訪ねると、三日月は薄暗いその部屋の端に座り込み、小窓から覗く欠けた月をぼんやりと眺めていた。
声を掛けても反応らしい反応は見られず、側に近付いてようやくその瞳が同田貫を捉えた。心なしか空ろな視線に戸惑っていると、三日月が手招きでもするかのように細指を突き出したから、おずおずと膝を折る。彷徨う指の行方を追えたのはほんの一瞬だった。何かを察する前に眼球に鋭い痛みが走って、獣じみた呻き声を上げて畳に転がる。押さえた左目からは夥しい量の血液が溢れ出していた。三日月の指は呆然とする同田貫の右目を掬い取ろうと蠢いていたが、すんでのところで魔手から逃れる。
すっかり混乱していたのだろう、血塗れた手で意味もなく右目を擦ると、三日月は「望月が」と呟いて、それきりこちらに意識を向けることはなかった。ただひたすらに空を眺め、欠けた月の向こうに何かを見出そうと目を凝らしている。そんな風に思えた。
同田貫の声と畳に体を叩きつける音を聞いてやってきた主は、畳を汚す鮮血と赤く濡れた三日月の指を見て言葉を失っていた。主に引き摺られるようにして手入れ部屋へと向かう道中、鉢合わせた燭台切は困惑も露に同田貫を見つめていて、「聞けなかった」とただそれだけ伝える。返事はなかった。
最後の異変は褥でのことだった。
平たい布団に横たわった同田貫の体をじっくりと観察したのち、三日月は耳元に唇を寄せる。
「名はなんと言う」
耳朶にねっとりと舌を這わせ、つい先程まで繰り返し口にしていた同田貫の名を問う。すべてが滑稽に思えた。『三日月が』なのか、『自分が』なのか答えは出なくて、ただ彼の望みに応えるため「同田貫正国」と短く返せば、三日月は花も綻ぶ笑みをその口元に浮かべる。
「おや、なんと偶然な。俺の想い人と同じ名を持っているとは」
宝物に触れるような緩慢な動作で、三日月の指は同田貫を愛でた。痩せぎすの、もう刀を持つことすら叶わないのではと疑いたくなるそんな指で固く凝った乳首をつねって転がして、充血したそこに熱い舌を這わせたあと、ゆっくり下って屹立をねぶる。
「もうどれくらい想いを寄せているだろうな。あれは色事に疎い。技量を磨くことばかりに夢中で――まあ、その直向な部分に惚れてしまったんだが。しかし及び腰になるなど俺らしくもないな……同田貫を抱くことが出来たら、この世にもう未練は、ない」
同田貫の体を穿ち揺すぶりながら、三日月は訥々と語る。同田貫の体は、この夜三日月が付けた所有痕にまみれていた。自分が生きた証を残すように、首筋、胸元、腹、腰、そして性器の周辺から足の爪先に至るまでを埋め尽くす甘い噛み痕。うっすらと血が滲み、紫に変色した部位すらあれど、それは確かに甘いのだった。
三日月は犯す体に散らばるその痕を眺め、憐憫を露に同田貫の頭を撫ぜた。
「むごいことをする者もいるな。よほど執着心の強い男に抱かれたか」
泣き喚きたい気持ちを堪え、自ら腰をうねらせ快感に溺れる。雌の声で喘ぐのは容易かった。いくらか時間が経った頃、三日月は同田貫の腹に精を注いだ。
翌朝、目覚めたときには腕の中に三日月の残骸だけがあった。
「――あれ、初めて見る顔だね。新人くんかい?」
手入れ部屋から姿を現した燭台切が瞳を輝かせ声を掛けてきたから、曖昧に頷いて自室に篭る。
甘い卵焼き、少し塩辛いおにぎり、生姜の効いた鯖の煮付け。彼の作る料理が同田貫は好きだったが、しばらくは食べられないかもしれない。
三日月がぼろぼろに崩れ消えてしまったあの日ですら溢れることのなかった涙が込み上げて、乾いた頬にとめどなく流れた。
刀にもいつかは打ち止めが来る。
三日月に目を抉られた日、主は同田貫に手入れを施しながら懇切丁寧に解説してくれた。
穴の開いた足袋を繕い、また繕い、また――と繰り返して大事に履き続けたところで、駄目になる瞬間というのは必ず訪れること。再生と修復には限度があること。同田貫たち刀剣もまた、その例外ではないこと。
「打ち止めって、なんだ。打ち止めになった刀はどうなるんだ」
馬鹿みたいな顔で、無知を装って、首を傾げると主はただ一言「壊れてしまう」と教えてくれた。それは一体どちらの意味で、と聞くのは野暮だろうか。さあどちらだと思う、なんて、三日月なら悪戯っぽい笑みを浮かべるだろうか。ああ、けれど駆け引き上手なあの人は、もう。
打ち止めが近付いてきた刀の頭からは、ぽろぽろと記憶が欠け、溢れ始める。刀が施される手入れとは摩訶不思議な妖術の類などではないのだろう。綻びを糸と針で縫い合わせるように、凸と凹を糊で貼り付けるように、単純すぎるくらい単純に修正を繰り返していけば、やがて軸も脆くなる。刀を合わせて継ぎ接ぎしても開いた穴を完全になかったことには出来ない。三日月の体にはもう、きっと糸を通す場所も糊を塗りたくる場所も残されてはいなかった。外身が剥がれ、やがて判断力や理性といった内側にまで侵食していく綻び。
最後の夜、三日月の中には本能と僅かな記憶の残り滓しか残ってはいなかったのだと思う。
同田貫を想いながら、空っぽの目で同田貫を見つめながら、同田貫を抱いたあの人。ちっぽけでくだらない生きた証を同田貫の体に痛々しく刻み、死んだあの人。
「初めまして、僕は燭台切光忠。主が君のところに食事を持っていけというから来たんだけど……。良ければ口に運ぶよ」
唇に当たった何かを咀嚼する。舌の上で潰れるそれは卵焼きだろうか。咽るような塩の味と、じゃりじゃりとした殻の感触を飲み下す。
燭台切は饒舌だった。同田貫の口にゆっくりと箸を運びながら、愉快に日常を語る。最近、畑の土が良く肥えて美味しい野菜がたくさん摂れるのだそうだ。けれど偏食な刀たちは折角作った食事をすべからく残してしまうらしい。料理の腕にだけは自信があるんだけどなあ、と、どことなく悲壮感の漂う声で燭台切は嘯く。
同田貫の双眸は潰れていた。
三日月が欠けた月を見上げていたあの部屋で自ら潰した。花を手向ける代わりに彼が求めた望月を贈ろうと思ったのだ、なんて夢見がちな言葉を口にしたけれど、本当はただ彼の最期を認めたくなかっただけなのかもしれない。三日月のいない世界をこの目に映すことは、自らもまた同じ末路を辿ることになるという残酷な現実を突きつけられているようだったから。
体にはあの日刻まれた痕がまだぽつりぽつりと残っている。今日もまた、首筋にくっきりと浮かび上がっているであろう歯形に爪を立てたから、身じろぐたびに血のにおいがした。
あれから手入れ部屋には入っていない。戦にも、出ていない。
眼孔の周辺をぐるりと一周する包帯を透かして差し込む光だけを頼りに、漠然とした時間の経過を感じるだけの日々だった。庭先から響く短刀たちの無邪気な笑い声や、遠征先で目にしたあれこれを面白おかしく脚色し騒ぐその声の中に三日月を探しては、ただ陽が暮れ、睡魔に飲み込まれる瞬間を待つ。
主は同田貫を咎めなかったが、時々訪ねて来る御手杵には執拗に訳を尋ねられた。しかし何も答えようとしない同田貫に見切りをつけたのか、ここのところ御手杵が訪れる頻度は随分減っている。最後にやってきた日、「なあ、同田貫。俺たちってもしかしたら――」なんて思わせぶりに言葉尻を濁らせたその声が忘れられない。
「君は気が狂れてしまったんだと、主が言ってたんだ。それって本当かな?」
与えられるがままに食事を摂って、噛み締めるたびに優しい甘みが滲み出す白米を次々と嚥下した。
「本当に気が狂れてしまった奴は、自分の気が狂れてしまったことになんて気付かねえだろ。俺に聞いたって無駄だ」
「へえ、そういうものなんだ。あ、お茶も飲みなよ」
口の中に注がれる液体からは、酸化した醤油の味がする。
その日も同田貫は室外から響く物音に耳を傾け、病床に臥す老人のように無気力な呼吸を繰り返していた。
「見ない顔だな」
ふらふらと近付いてきた気配が同田貫の部屋の前で留まり、鷹揚とした声を発する。その耳慣れた心地よい声に、同田貫は無い目をカッと見開いて硬直する他ない。もしかしたら今、自分は浅い眠りの淵にいるのだろうかと夢を疑ったけれど、畳を踏み鳴らし同田貫の傍らへとやってきたその気配は嫌にくっきりとしていて、現実であるとしか思えなかった。
「みか、三日月の……三日月のじいさんなのか」
「ほう、目をやられているように見えるが、俺が三日月宗近と分かるのか」
感心したようなその声はまさしく三日月のものだったし、その声は確かに同田貫の疑問を肯定している。折れ、塵と消え去った刀剣が再びこの本丸へと姿を現すことはそう珍しいことではない。ただ、三日月宗近という刀は審神者である主の力を以ってしてもそう手には入らない、非常に稀有な存在だ。
いつか、三日月を待つことは止めたほうがいいと正直に伝えてくれた主の言葉を裏切って、同田貫は待ち続けていた。これを奇跡と人は呼ぶのだろうか、天に祈りを捧げ続けた結果なのだろうか。そんな陳腐な台詞を思い浮かべながら、同田貫は歓喜していた。三日月と巡り合えたのだ、こうして、また。
「して、お前の名は何と言う」
同田貫はもう何度、三日月に自らの名を問われたことだろう。
「――同田貫正国」
答えなんて決まっているから、何を考えるまでもなく同田貫はその名を口にするのだ。
刀解、破壊された刀剣の、刀剣男士として生きた記憶が新たな刀に引き継がれることはない。たとえ同じ刀であっても、人の形を成していたその頃に誰かと築いた愛や作られた価値観なんてものは一切移植されない、まっさらな状態だ。
当然、今の三日月の中に同田貫と過ごした記憶は無いだろう。恋仲にあったことは勿論、繰り返し肌を重ねたことも知らない。
過去を伝えるつもりはなかった。三日月が死んだその理由を詮索されることが、恐ろしかったのだ。
きっともう、三日月が同田貫の名を繰り返し尋ねることはない。今はそれだけで充分だった。
三日月はたびたび同田貫の元へと顔を出した。相変わらず同田貫の目元には包帯が巻かれている。
主は三日月を部隊へと組み込んではくれないらしい。所属を許されたとしても精々三番隊、四番隊が関の山で、ろくに戦へと赴くことはないのだと、三日月は肩を竦め笑っていた。
この本丸で刀の末路を知っているのは――いや、知ってしまったのは同田貫だけだ。なにせ打ち止めが来るほどに長く使い、過剰なまでの頻度で手入れを施していたのは当時三日月だけだったのだ。それはあまりに残酷な事実だったし、主は他の刀剣になにを話すつもりもないと断言していた。察しの良い刀剣――たとえば御手杵などはもしかしたら悟っているかもしれないが、やはり彼はあれから訪ねて来ないので実際のところは分からない。
だから主が三日月を邸に留まらせ、戦に向かえぬ状況を強いているのは、同田貫に対する贖罪なのかもしれない。あるいはこの稀有な刀を再び失うことを恐れているだけなのかもしれないが、最早同田貫にはどちらでも良かった。鉄屑となった三日月の体を抱きながら目覚めたあの朝をまた迎える日が来ないなら、それだけで良かったのだ。
連日のように顔を突き合せ、他愛ない瞬間を共有する二人の関係が深いものへと変化していくのに、さほど時間はかからなかった。
「たぬ、たぬきや。お前の体に刻まれたこの痕は一体誰がつけたものなんだ」
三日月は同田貫の体を抱きながら、時々悲痛な声を上げた。同田貫が決して消すことの出来ないその痕跡を塗りつぶすように、三日月はとめどない快感を与えてくれる。余すことなく体に触れて、繰り返し同田貫の名を呼びながら三日月が果てるたび、幸福感が胸に押し寄せて呼吸もままならない。
「その昔愛した刀はな、たぬき、お前によく似ていた。いや、俺がそんな記憶を持っているはずもないな。夢か幻なのかもしれん。だが俺はその刀が猪突猛進に戦場を駆け、敵の体を断ち斬っていく雄雄しい背中が好きだった。戦場に生きる姿が好きだったんだ」
ある日の褥で三日月が口にした言葉に、同田貫の心は揺らいだ。
手入れをしてほしいのだと頭を下げた同田貫を、主は酷く困惑した態度を見せながらも受け入れてくれた。久方ぶりに同田貫の眼窩へと光が灯る。本丸の様子はそう変わっていなかったし、しきりに辺りを見回しながら邸を歩き回る同田貫に声を掛けてきた御手杵もまた、いつか見た快活な笑みを浮かべている。
「同田貫が引きこもってる間に、俺も随分強くなったんだぜ。試してみるか?」
したり顔で言うものだから手合わせをしてみたところ、完膚なきまでに打ちのめされて呆然とする。負傷することも少なく、手入れ部屋にはもうしばらく世話になっていないのだと彼は自慢げに言った。
打ち止めの瞬間が訪れ、壊れることを恐れるなら、どこまでも技量を磨いて原因を遠ざければいいのだ。彼の顔には明確な答えが記されていた。それは確かな希望で、現実から目を逸らしただひたすらに打ちひしがれていたばかりの自分を恥じる。彼は考え、自らの手でそれを見つけたのだ。
食事時の騒がしい広間へと足を運べば、誰もが目を剥いて同田貫を見た。どれだけの期間、彼らの前に姿を現していなかったかなんてもう分からない。それは当然の反応に過ぎなかった。
いつの頃からかやたらと懐き、よく同田貫の後追いをしていた五虎退が瞳を潤ませ駆け寄ってきたのを皮切りに、他の刀剣も次第に表情を和らげ、どこか安堵の表情を浮かべて歓迎の姿勢を取った。既に出来上がっている次郎太刀に絡まれて、渋々煽った酒は喉を焦がしたけれど、そう悪い気分ではない。
「ああ、そういやアンタは多分知らないよね。一振り目の燭台切がさ、少し前に刀解されちゃったんだよ。だから、いま炊事場にいるのは二振り目。……アンタのことは当然覚えてないだろうけど、責めないでやってくれるかい?」
刀解。
燭台切の最期を看取ったのは主であるということだ。次郎はその事実を悲しんでいるように見えたが、脆く崩れ去った亡骸を前に呆然とする状況を強いられるより幾分か良い。同田貫と同じ絶望感に飲まれた者がいないのなら、それが最良だ。
燭台切はどんな気持ちで死を受け入れたのだろう。狂れてしまった自分に気付かぬまま逝けていますように、なんて柄にもなく願う。
同田貫と対面し「君が噂の子かあ」と笑顔を見せた燭台切は、次々に料理を運んできた。卵焼きはほんのりと甘く美味だったし、彼の作ったそれらを食べ残す者は誰一人としていなかった。
眼窩に黄金色の火を灯した同田貫を前に、三日月は穏やかな笑みを浮かべた。
「こんなにも美しい望月を隠していたのか」
そう言って、同田貫の目蓋に唇を落とす。柔らかな皮膚を啄ばんで、その奥で眠る瞳を愛でた。
「……もしもあんたが欲しいってんなら、やるよ。俺の目、あんたにやる」
「可笑しなことを言うな。お前の眼窩から離れてしまったその望月に、なんの価値がある」
慈しむように降り注ぐ口付けの雨を受け止めながら、いつか三日月がこの瞳を欲した日のことを思い出す。あの日、主からすべてを聞かされたあの時、同田貫にはやるべきことがあったのかもしれない。三日月に訪れた最期はあまりにあっけなく、悲惨だった。
いつかは癒えてしまう痕だけを同田貫の体に残して、そうして目の前の愛すべき者の姿を識別することすら出来なくなって、見知らぬ腕の中で死ぬ。そんな最期を覆すために同田貫が刀を握っていたなら、この瞬間も今より幾らか陽気に迎えられたのだろうか。
これまでの体たらくが嘘のように精力的に刃を振るう同田貫を見て、主は時々その表情を曇らせた。手入れ部屋へと赴くことは出来る限り避けたかったが、技量を磨くためにと実戦に挑めば挑むほど必然的に世話になる機会は増え、焦燥がそれを助長する。だが以前の三日月に次いで古株である御手杵が何ら変わりなく生活している姿を見れば、心が挫けることはなかった。
それから一度だけ、三日月と共に江戸へ出陣したことがある。
治安の良い地域であったためか、はたまた部隊の実力が点在する敵軍と交戦するに充分であったためか、必ず三日月を無傷で連れ帰ると主張して憚らない同田貫に、渋々ながら許可を出してくれた主の表情はやはり優れなかった。三日月は久方ぶりの戦に心を奮わせ、そしてこれでようやく同田貫が戦う姿を見ることが出来ると嘯く。
戦果は上々で、宣言通り三日月には擦り傷一つ付けることなく本丸へと帰還した。三日月の繰り出す一振りが敵兵の喉を掻き切った瞬間を、同田貫はきっと忘れないだろう。もう二度と目にすることは叶わないと思っていた優雅な剣さばきを目蓋に焼付け、その日の夜は戦場に立っても尚、悠然とした三日月の動作を繰り返し再生しながら眠った。
「最近、ちょっと無茶しすぎなんじゃねーか」
手入れ部屋を出てすぐ、待ち構えていた御手杵が渋い顔で呟く。治したばかりの腹をさすって、ばつの悪さに目を逸らす。
急いた気持ちで戦に向かうたび、同田貫はその体に決して浅くはない傷を無数に散らして帰ってきた。主や部隊長を務めるへし切は「先走って力で圧そうとするな」と叱責を飛ばしてきたが、同田貫はそれほど器用ではないのだ。確かな強さを身に付けるためには交戦するしかなかったし、細やかに身を翻し戦うことはそう容易いことではなく、どうしても力に頼ってしまいがちだった。
御手杵がなにを訴えたいのかなんて明白で、けれど同田貫はまだ大丈夫だと根拠もなく信じていた。彼同様、不明瞭な未来に脅かされることのない状況へと身を落ち着けるには、実戦を積まなければならないのだ。死より恐ろしい現実が待ち構えていると知った刀は、希望に縋ることでしか生きられない。
――最初の異変に気付いたのは、それからどれくらい経った頃だろう。
「っおい、なんだよ。俺はあんたと抱き合う仲になった覚えはねぇぞ」
三日月の端正な顔がひくりと歪む。抱き込んだ同田貫を戸惑いの表情で見下ろす三日月は、その言葉の真意を測りかねているようだった。
同田貫は自らの置かれている状況に憮然とし、間近に迫る三日月に怪訝な視線を送る。背中は布団に沈んでいたからそれ以上身を引くことは叶わず、上体を捩って抜け出そうとすれば顎先を掴み口付けられた。ぬるりと進入してくる舌に肌を粟立て、思わず歯を立てる。三日月は咄嗟に唇を離すが、口内に広がる鉄の味に二人して声もなく見つめあった。
「わ、るい。――? 俺、なんで……」
ちかちかと視界が爆ぜて、まるで逃げ出した記憶が舞い戻ってきたかのように、瞬間的に自覚を促される。たった今、自分が何故目の前の状況を不審に思ったのか、何故その舌に噛み付いてしまったのか、不可解な行動に首を傾げた。
瞳を瞬かせていた三日月は曖昧に笑って、「寝ぼけているのか」と、からかいながら再び唇に触れる。今度は無抵抗に受け入れた同田貫だが、交わしたやりとりに強い既視感を覚えた。釈然としないまま、肌をまさぐる細い指の感触を辿っていたとき、過去の光景とそれが重なった。
爪先からゆっくりと体が冷えていく。あの日の三日月の声や表情、仕草までもがやたら鮮明に蘇って、同田貫の中に湧き上がった疑念を確信に変えていった。
「たぬ、お前ともう一度戦に出られたらいいんだが」
三日月は近頃、うわ言のようにそればかりを繰り返す。遠征や演練に徹し、その刃を戦場でろくに振るうことなく生きる三日月は、果たして幸福と言えるのだろうか。
戦場に生きる姿が好きだったと、その言葉に同田貫の本能がどうしようもなく揺すぶられたように、三日月の中でもきっと何かが燻っている。
心臓の上を指先でなぞる。
三日月は穏やかな表情で眠っていた。少しひんやりとしたその肌を滑るじっとりと汗ばんだ指先は、明確な意思を持って形を作る。
「――どうたぬき、同田貫正国、か」
ふと目を覚ました三日月が頬を綻ばせこちらを見上げた。愛らしい悪戯を、とでも言いたげな顔だ。
「今剣がな、よく俺の背中に文字を書いて遊ぶんだ。あれの場合は、大抵書くのは『いわとおし』だが」
「……褥に他の男の話題を持ち込むのは悪趣味なんじゃねぇのか?」
「ああ、すまんすまん」
くつくつと喉を鳴らすその姿に目を眇める。溢れそうになる声を押し留めるため、かさついた唇で三日月の左胸に触れた。規則的な鼓動がじんわりと響く。
本当はその体中に噛み跡を残し、自らの名前を刻んでしまいたかった。だが同田貫は残された者がそれに縛られることを知っている。
「ん、っう……あ、ぐ」
後孔に怒張を宛がい、同田貫はそれをゆっくりと体内に沈めていく。根元まで飲み込んだ瞬間、三日月がほんの少し苦しげな声を漏らす。押し広げられた襞がちりちりと痛むが、まるで気に留めず腰を上下させていると、次第に激しい異物感は薄れていった。
咥え込んだ性器が時々ひくりと痙攣するその感覚が、脈打つ心臓に似ていると思う。朦朧とする意識が錯覚を起こして、このまま締めつけ続けたら三日月が死んでしまうかもしれないと恐ろしくなったが、及び腰を叱責するように内壁を抉られて不安が飛び散った。
後孔を穿たれ、快楽に蕩かされる頭の中で必死に三日月の名を繰り返した。ぼやけた瞳に彼を映し、まばたきも堪えて見つめ続ける。左胸にしっかりと突いた手に伝わる、徐々に乱れていく三日月の鼓動をひたすらに追いかけた。その速度を、決して忘れたくなかった。
「ここに、あんたの痕を残してくれねぇか」
事後の余韻に浸りながら、同田貫が指し示したのは自らの左手だった。
折り曲げた指を口元に差し出すと、三日月は何を問うでもなく剥きだしたそこに歯を立てる。
「俺にも同じものを刻んでくれるか」
茶化すような台詞に、同田貫は曖昧に微笑んで首を振る。左右に揺れる短い髪を見て、三日月は何を思ったのだろうか。
ぎりぎりと容赦なく食い込んだ歯が皮膚を裂く痛みに、視界がぼんやりと滲んだ。
「なぁ、あんたに一つ頼みがあんだよ」
主と共に寂れた合戦場に赴いた同田貫は、ふと思い出したように呟く。
見遣った主は砂埃を巻き上げる風に顔を顰め、手のひらで目を拭っていた。その指には銀色の華奢な指輪があった。主の生きる時代には、愛し合う相手と契りを結ぶとき指輪を贈る風習があり、それは必ず左手の薬指に嵌めるのだという。
心と心のつながりを約束するその指輪を見れば、愛を忘れそうになったそのときも二人の未来を誓い合った日のことが蘇る、なんて最初に言い出したのは一体誰なのだろうか。ちゃんちゃら可笑しな話だ。信じる者の気がしれないと、同田貫はいつも思っていた。
「新しい同田貫正国が来たら、この場所に同じ痕を刻んでやってくれ」
同田貫が突き出した左手、その薬指の付け根をぐるりと囲む歯型を見て、主は力強く頷く。たしかに首を上下させたのを確認して、同田貫は身を翻した。
踏み鳴らす地平の先に、敵軍の姿が小さく見て取れる。同田貫は刀を抜いてこそいたが、一人きりであの敵兵をすべてをなぎ倒すことは確実に不可能だろう。けれどその足を止めることはない。少しずつ、少しずつ明確になっていく敵の輪郭を見据え、薬指に唇を落とす。