終わりのない恋の話



 二人が初めて『そう』なったのは、高校受験を一週間後に控えた冬の日だった。
 同田貫が黙々とテキストに向かっている間、三日月は持ち寄った新書に目を落としながら、時折外の様子を窺っていた。
 窓枠にはわたがしのような雪が連なり、道路には出来たそばから白く塗りつぶされていく数本の轍がある。年代物のヒーターが同田貫たちを暖めようと奮闘していたが、その働きを嘲笑うかのように冷え込みは激しくなり、空から落ちる雪の粒も見る見るうちに膨らんでいった。

 帰りの心配をしているのだろうな、と、ぼんやり思う。
 授業を延長してくれ、と駄々を捏ねたのは同田貫だ。試験で不安な部分があるから、自信がないからあともう少しだけ、なんて言い訳を作り懇願する同田貫を、三日月は小さな溜め息一つで受け入れた。
 家庭教師という立場を差し引いても、三日月は同田貫に甘い。同田貫は際立ってかわいい子供でもなければ、優秀な生徒でもなかったけれど、それでも三日月の特別だった。そうして、同田貫はそれを自覚していたのだ。
 だからって三日月を困らせようと目論んだ訳ではない。ただ、しんしんと降り積もる雪を眺める横顔が綺麗だと、もう少しだけ見ていたいと、柄にもなく思っただけだ。それにその日は、三日月が同田貫の『先生』である最後の日だったから。

 三日月を引き止める言葉なんて知らなかった。
 同田貫はたしかに子供だったけれど、分別も付かぬほど幼くはなかったし、「今日で終わりだ」と告げられれば素直に頷くことしか出来ない。
 力があるわけでもない、知恵があるわけでもない、金があるわけでもない。くすぶる想いを持て余すだけの、平凡な子供だった。
 
 時計の針が進む速度を、同田貫がじれったく感じなくなったのはいつからだろう。チャイムの音が気になるようになったのは、大嫌いな数学がほんの少しだけ好きになったのは、耳たぶを掠める声に淡い恋慕を抱きはじめたのは。
 あふれ出す白い息が、テキストに並ぶ数式を滲ませていく。消しゴムをかけすぎて黒くなったページの端に、シャープペンシルを滑らせ、すぐに消した。ぽろぽろと生まれる消し滓に詰まったすべてを、この気持ちごと捨ててしまおうと思ったのだ。
「知っているぞ」
 だから、三日月が不意に呟いた言葉を理解したときには、掻き集めた消し滓はごみ箱に吸い込まれたあとで、黒ずんだページにくっきりと残る二文字の痕跡だけが未練たらしく存在感を放っていた。

 三日月は諦めにも似た表情を浮かべていたように思う。
 観念した、とばかりに伸ばされた手に心は迷ったけれど、次の瞬間には悴む指先を絡ませ、「もう少し俺だけの先生でいてくれよ」と、そんな風に駄々を捏ねた。嫌になるくらい初心な同田貫の肩が、小さく震える。窓辺から忍び寄る冷気を以ってしても収まらないほど、触れ合った指先が熱を孕んでいた。
 熱は心臓を激しく揺すぶって、本当に伝えなきゃならない二文字がごみ箱の奥で息をひそめ、見つめ合う二人を見上げていることにも同田貫は気付かない。
 二人の関係のはじまりは、雪にぼやけた空のように曖昧な色をしていた。



 高校に入学後、三日月が家庭教師として同田貫の元へ訪れることはなかったが、自宅にやってくる頻度はそれほど変わらなかった。恋人として――いや、表向きは友人として、二人は長い時間を共に過ごした。
 三日月が同田貫の両親と良好な関係にあったことで、その時間は随分と快適なものだったように思う。ミーハーな母は、整った容貌を持つ三日月にすっかり骨抜きにされていたし、堅物の父もまた、頭脳明晰な年上の友人を無下にはしなかった。
 あれは駄目、これは駄目、と常日頃からやかましい両親は、同田貫の交友関係にもたびたび口を出してくるような人たちで、基本的に許されることより許されないことの方が多かった。この友人は後者だから、なんて距離を置いたりはしなかったけれど、名前を挙げるたびに渋い顔をされて良い気持ちはしない。

 先生がさぁ、と言うと、今は先生じゃなくて宗近くんでしょう、と母が窘める。広げた新聞の向こうで父が呆れた声を上げ、そうして三日月がやわらかく頬を綻ばせることを誰も咎めない。許された関係はひどく心地よかった。
 
 けれどそんな関係を、時折ままごとのようだと感じないでもない。 
 同田貫は三日月を恋人であると認識していたけれど、艶っぽい行為に及んだことは一度たりともなかった。顔を合わせるのはもっぱら両親の揃う夜間で、なかなか好機が巡ってこなかったためだ。
 そもそも、三日月は手を出してくる素振りすら見せず、その事実は同田貫の不安や焦燥を煽るに充分だった。二人は関係を確かめあうこともなかったし、一見すると家庭教師と生徒であった頃から何ら変化はない。
 友人と恋人の違いはどこにあるのだろう。異性ならばまだしも、同性となるとその境界がはっきりしない。いつまでも続くままごと遊びがもどかしくて、きっと少し、気が急いていたのだ。


「別にこういうことしたっていいじゃねぇか。こいびと、なんだし」
 十八の誕生日を迎えてすぐ、二人きりの部屋でくちづけをせがんだ。
 くちびるや体を重ねる以外、二人の関係を証明する方法なんてないのだと思い込んでいたから、同田貫はいつになく強気だった。

 高校はじきに卒業するし、就職だって決まっている。もう同田貫は大人なのだから、足枷なんて何一つない。そう信じていた。
 射し込む西日が、青い胸を焦がす。やがて三日月がかぶりを振った瞬間、鼻腔の奥がつんと痛んで、やるせない想いが一気に爆発した。
「っ……じゃあ俺はあんたの気持ちをどうやって確かめればいいんだよ!」
 声を荒げ、一方的に怒りをぶつける。
 感情に任せ怒声を上げる様は、まさしく不器用で愚かな子供以外の何者でもなかったが、同田貫はそれに気付かない。
 ぐっと背伸びをして、無理矢理くちびるを奪おうとした同田貫の肩を、三日月は優しく撫ぜる。けれど宥める動作すら、今の同田貫には何かを誤魔化そうとしているようにしか見えなくて、三日月が発した言葉を遮り唇に噛み付きかけた、そのときだ。そのとき扉が開かなければ、性質の悪い喧嘩で終わるはずだった。

 ちいさく息を飲む音が鼓膜を震わせる。
 視線を遣った先で立ち竦む母の姿を、その表情を、同田貫は決して忘れることはないだろう。


 高校はじきに卒業する。就職だって決まっている。あと二年もすれば成人だし、煙草も酒もすべて解禁だ。
 それでも同田貫はまだ子供だった。
 庇護の元から脱け出すことなど出来ない、ちっぽけな子供でしかなかった。  
 許された二人の関係は、たちまち許されない関係になる。その日以来、三日月が同田貫の自宅に姿を現すことはなくなった。


 いざ引き剥がされてみて分かったのは、同田貫は三日月のことを何も知らないということだ。住所も、通っていた大学の場所も、友人の一人すら知らない。
 唯一知っていたのは電話番号くらいのもので、同田貫は縋るような気持ちで着信を入れ続けた。そのうち受話器の向こうから機械的なアナウンスが流れるようになったのは、三日月の意思によるものだったのか、はたまた両親の意思によるものだったのか定かではない。たしかな事実は、二人はもう声を交わすことすら出来ないということだ。
 三日月は木枯らしのように掴みどころのない人だった。そうして、その残り香も本人同様、容易に手をすり抜けていった。

 痕跡が薄れていくにつれ、弾けんばかりに熟れはじめた同田貫の心は様々な想いを巡らせる。三日月のいない日々はひどく単調で、退屈だった。過去を思い返すことで、空虚に囚われた現実から目を逸らそうとしていたのかもしれない。

 胸焼けするほど甘ったるい空気の立ち込めるバレンタインデーが近付いてくると、テレビは似たような特集ばかり垂れ流すようになった。ありふれたフレーズの数々が胸に刺さり、同田貫の想いはようやく一つの答えに行き着いた。
 ただ一言、好きと言えば良かった。三日月はきっと同じように、好きと返してくれただろう。それで充分だった。二人の関係を証明するには、そんな単純な気持ちを声にするだけで充分だったのに、どうして言えなかったのだろう。どうして、言わなかったのだろう。

 ごみ箱に捨てた二文字をあのとき拾い上げていれば、何かが違っていたのかもしれない。同田貫はひどく悔やんだけれど、もうこの恋をあの人に告げる術はない。
 曖昧にはじまった関係は、その終わりすら曖昧に濁し消えていく。
 
 
 激しい未練に苛まれる心が叫んでも、三日月がふたたび同田貫の前に現れることはなかったし、世界は二人が曖昧な恋に身を落としたその季節を幾度となく巡らせた。
 年が明けて一発目の仕事を終え、同田貫は雪化粧を施された坂道をゆったりとした足取りで上る。赤く色づいた鼻をこすり、凍えた指をコーンスープの缶であたためていると、ダウンのポケットが耳障りな音と共に震えた。スマートフォンの液晶に表示された『母』の文字に首を傾げ、通話ボタンをタップする。
「なんだよ、なんかあったのか」
 ぶっきらぼうな第一声に、母はまず小言を並べ立てた。
 空返事を繰り返す息子に呆れた声を投げつけたあと、嘆息と共に「実はね」と母が語りだしたその内容に、同田貫の手から缶が滑り落ちる。鈍い衝撃ののち、転がった缶からじわじわとコーンスープが溢れ出し、薄く積もった雪を溶かしていった。

 ――宗近くん、結婚するんですって。

 宗近くん。
 その響きにはあまり馴染みがなかったが、誰を指しているのかははっきりと分かる。三日月、三日月宗近だ。
 溶けだした雪がくすんだスニーカーに染みを作る。記憶の底に閉じ込めていた思い出たちが、同田貫の頭の中を走馬灯のように駆けていき、当時の青い気持ちまでもが鮮明に蘇った。ちらつき始めた淡雪が頬を濡らし、懐かしさと切なさに胸が膨らんでいく。
 言葉を失う同田貫とは対照的に、母は饒舌だった。酒のにおいが受話口越しに漂ってくるような、呂律の回らない声で次々に言葉を紡ぐ。
 同田貫の職場のすぐ側にある協会で挙式を行うこと、今日から数えてちょうど一月後を予定していること、相手の女性は良家の子女であること。
 どこかぼんやりとした頭で、母の言葉を反芻する。
 いくらもせず、電話の向こうから健やかな寝息が響き始めた。通話終了ボタンを押す指が小刻みに揺れる。肩にうっすらと積もった雪を払い落とすこともせず、歩道の真ん中で立ち尽くす同田貫を煽るように、通りがかりのトラックがクラクションを叩き鳴らし去っていった。
 雪は二本の轍を覆い隠さんと降りしきる。悴む指先が、わずかに熱を孕んだ。

  


 ――祝福の鐘が響く。
 小高い丘の上で揺れる鐘を囲むように、色とりどりのドレスに身を包んだ女性たちが拍手を送った。まばらに見える男性やあどけない子供たちもまた、手を叩き新郎新婦に祝いの言葉を投げる。式の最後を飾るに相応しい、華やかな音色が冬の青空に溶けていった。

 間に合わなかった、と後悔の念を抱きながら、同田貫は作業服に染み付いた油のにおいにすんと鼻を鳴らす。たとえ間に合ったところで、こんな酷い風貌で式に参加出来るはずもない。そもそも招待すらされていないのだから、こうしてほんの少しでも挙式に立ち会えただけマシだろう。遠い木陰から、賑わう声に耳を澄ませて自らに言い聞かせる。
 参列者の垣根に遮られ、主役の姿はまるで見えなかった。けれど今、三日月はたしかにあの場所にいるのだ。妻となる女性と腕を組み、心からの祝福を浴びながら笑みを浮かべている。穏やかな、蕾んだ花を綻ばせるような笑みを。

 本当は来るつもりなんてなかった。偶然、社長から半休を取るよう指示されなければ、きっと同田貫はここに立ってはいなかっただろう。運が良いのか悪いのか、自嘲めいた笑いが漏れる。
 けれど最終的にここを訪れようと決めたのは誰でもない同田貫自身だ。一体なにをしたかったんだ、と自問するが、答えは出てこない。いつだってそうだ。肝心なことを碌に理解出来ないまま衝動に突き動かされ、あとになって後悔する。三日月と離れることになったあの日――十年前から、同田貫はなに一つ成長していない。

 やがて参列者はどこかへ消えていく。挙式を終えたあとはパーティーでも催すのだろうか。その手の知識に疎い同田貫には分からない。ただ、この場所で待ちぼうけていても、三日月の姿を一目見ることは叶わないだろう。
 肌を刺すひんやりとした風に身震いし、立ち去ろうとしたところでふと、わずかに開いた協会の扉が目に留まる。辺りに人気はなかった。好奇心の疼くままに、緻密な装飾が施されたゴールドの取っ手を引くと、たちまち厳かな空気が同田貫を包んだ。
 左右の壁に並ぶステンドグラスを通り抜ける光が、真紅のバージンロードを照らしている。祭壇に掲げられた十字架に導かれるように、同田貫はゆっくりと足を踏み出した。
 射し込む陽は七色を宿し、同田貫の体に宝石めいた光を纏わせる。純白のドレスにさぞ映えるだろう。左右から注がれる羨望のまなざしもまた、花嫁の美しさを際立たせるに違いない。知らぬ姿を思い浮かべ、祭壇を見つめる。

 ここで、三日月は一人の女性と生涯を添い遂げることを誓い、くちづけを交わしたのだ。
 同田貫がついぞ触れることは叶わなかった唇で、想いを紡いだ。
 好き、なんて軽い言葉ではないのだろう。愛、愛してる、愛している。きっとそんな、同田貫なら気恥ずかしくてとても口に出来そうにない最上級の言葉を、三日月は誰かに捧げた。そうして花嫁もまた、同じように甘い声を返した。
 じわりと、古傷から血が滲み出すような感覚がする。
 やはり同田貫はまだ、三日月への想いをまるで断ち切れてはいない。ここを訪れた理由がようやく分かったような気がした。確かめたかったのだ。あの日から燻ったままの自分の気持ちを。

 思い出は美化されるものだと言う。もしかしたら、同田貫の恋心も長く仕舞っていたせいで変に鮮やかに見えるだけなのかもしれない。本当はもう、三日月のことなんて好きじゃなければいい。そんな願望を胸に、ふらりと振り向いたそのとき、協会の扉がゆっくりと開いた。
 すう、と足元から凍えていくような感覚が走ったのは、なにも吹き込む風の冷たさだけが理由ではない。

「――正国?」
 驚愕に目を見開いたその人が、同田貫の名を呼ぶ。
 目の覚めるような純白のスーツに身を包んだ三日月の姿に、全身がぞわりと総毛だった。せんせい、と、掠れた声で呟くと、三日月はひどく可笑しそうに喉を鳴らす。
「呼び癖はまだ抜けていなかったか、正国や」
 揶揄っぽい声も、その表情も、何もかもが十年前の三日月と同じで息を飲んだ。突如として過去に引き戻されたような、十代のあの頃に遡ったような錯覚に囚われる。
 口を噤んだ同田貫の元へ、三日月が少しずつ近付いてくる。バージンロードを踏みしめる足元に視線を遣りながら、逃げ出したい衝動を必死に抑えた。幼く愚かだったあの日、胸に蔓延っていた猜疑心や不安の塊が蘇り、同田貫の唇をむずつかせる。

 だが、やがて眼前で立ち止まった三日月の姿を目にしたとき、同田貫はその容貌に安堵した。
 近付いてみればなんてことはない、目元や口元にうっすらと刻まれた皺が、時間の経過を如実に表している。記憶の中から飛び出してきた、とはお世辞にも言えないその変化に、強張った体から力が抜けていった。
「随分久しいな。その格好は……仕事着か」
「……ああ。この近くのディーラーで整備士やってるから」
「そうかそうか。それなら、これまでどこかで擦れ違っていたかもしれんな」 
 三日月の軽く朗らかな声は、幸福に満ち溢れていた。十年も前の色恋沙汰を未だに引き摺っているのは同田貫だけであると、その懐かしむようなまなざしが物語る。ああ、と胸の中に溜め息があふれた。理解していたはずの現実が、同田貫の声をせき止める。
 三日月にとって、同田貫と過ごした日々はなんでもない過去でしかないのだろう。目を逸らせば見失ってしまうほど、ありふれた記憶の断片。
 二人は一つの時間を共有し、一つの思い出を分け合ったのに、どうして胸に残る重みにこんなにも大きな差が生まれてしまったのだろうか。あの日のままの三日月はもういない。同田貫もまた、何もかもがあの日のままとは言えないけれど、たしかに変わらないものが心の真ん中にある。

 好きだ、と思う。
 三日月の笑みに、どうしようもなく込み上げる想いはたしかに恋だった。あの頃となにも変わらない、青く胸を焦がす恋だった。

 視線を重ねたら今にも気持ちがあふれそうで、同田貫は重いまぶたを伏せる。
「……俺さぁ、まだ仕事残ってんだ」
 だからもう戻らねぇと、と言い訳みたいに付け足して、立ち去ろうとした同田貫の手首を、三日月が掴んだ。
 油のにおいと黒ずんだ汚れが広がるそこに、細く節くれだった指が食い込む。冬の日に似合いの、ひんやりと冷たい手だった。いつか悴んだ指先を絡め合った日のように、同田貫の体はじわりと熱を孕む。

「本当は、俺になにか言いたいことがあったんだろう」
 ほんのりと強張った、三日月らしくない声が耳をくすぐった。触れ合った場所から体温が溶け、混じりあう。子供みたいに火照っていく三日月の指が愛おしくて、そこに嵌められた冷たい感触が切なくて、わずかに滲んだ迷いがもどかしかった。
 同田貫が何を言いたいかなんて、分かっているくせに。
 あの頃は気付かなかったけれど、存外、意地の悪い人だなあと思う。口にしたって、受け入れてくれるわけでもない。ふたたび同じ時間を分かち合えるわけでもない。行き場のない気持ちを打ち明けた同田貫に、三日月はどんな言葉を与えようとしているのだろう。

 太陽を吸い込むステンドグラスが、翳ったまぶたにちらちらと七色を落とす。花嫁と、そして三日月にだけ許された祝福が降り注ぐ。
 同田貫の体を皮肉に照らす光は美しく、あたたかい。震わせたくちびるに淡い光のかけらが滑り込み、そうして声になった。

「俺、あんたのことが好きだった」
 まっすぐに見つめた双眸が、ひくりと揺れる。三日月の瞳に映る自分は、上手く笑えているだろうか。確かめることは叶わないから、ただ頬を綻ばせる。
 本当は好きだと言いたかった。
 この気持ちを過去のものになんてしたくない。とうに色褪せたもののように扱いたくない。
 けれど、それはあの日の二人だけが交わすことを許された言葉だった。今はもう、決して許されない言葉だった。
 手首に絡む指をやんわりとほどいて、光の路を踏みしめる。
 汚れたスニーカーは床をこするたび、軋んだ音をたてた。神聖な協会に不釣り合いなそれを塗りつぶすように、丘の上からぼやけた鐘の音が繰り返し響いて、同田貫の耳元をやわらかく掠めていった。
「――正国、俺は」
 重い扉に手をかけた瞬間、たちまち明瞭になる祝福の音色が、背後から響く声を掻き消していく。


 薔薇のアーチをくぐり抜け、短く刈りそろえられた芝生を踏むたび、青いにおいが鼻腔をくすぐった。冷たい北風に乗って、冬のかけらがちらつき始める。太陽に覆い被さらんと、早足で頭上を過ぎていく厚い雲を見たところ、雪はしばらく降り止まないだろう。
 うすく翳りだした空に手を伸ばせば、てのひらはあっという間に凍えた滴に覆い尽くされる。それでも孕んだ熱は冷めることなく、指先にいつまでも留まり続け、自身の諦めの悪さに思わず苦笑を漏らした。
 同田貫は終わりのない恋をしている。
 季節がどれだけ巡っても、滞る熱を散らそうと雪原に沈んでも、決して冷めることのない恋をしている。曖昧にはじまり、曖昧に遠ざかった恋だった。終わりのない、恋だった。