花になる



 薄暗く、湿っぽい箱の中で同田貫は生きていた。
 その箱の中にひしめく無数の刀は皆、同田貫と同じ顔を持ち、同じ傷を持ち、そして同じ名を持っている。
 錆びのにおいが染み付いたそこは決して窮屈ではなかったが、代わりにとても退屈で、一日のほとんどを眠って過ごした。記憶も思考も何もかもが恐ろしいまでに合致した刀との会話は碌に続かなかったし、呼吸をするほかに出来ることと言えばそれくらいしかなかったのだ。
 日に一度だけ、この箱唯一の戸が叩かれる。と言っても、設けられた鍵を内側から解錠することは不可能で、その音は単なる合図に過ぎない。
 ずけずけと侵入してきた人間――審神者と呼ばれるその人が胡乱な目つきで刀を選別する理由は、打ち砕いて資源として活用するためだ。だから同田貫は連日訪れるその瞬間が恐ろしかった。けれど、どれだけ周りを見渡せど脂汗を浮かべる者はいない。むしろその表情は希望に満ち溢れ、戦場を駆け抜ける役割がようやく自分にも回ってきたのだと信じて憚らない、眩しい目をしている。
 待ち受ける運命を知らないのも無理はない。彼らはこの箱に入れられてまだ日が浅かった。そう、大抵は自分達の用途を理解する前に連れ出され、砕かれるそのときになってようやく審神者の意図に気付く。神の気まぐれか、何故かいつまでも対象として選ばれない同田貫を除き、すべての刀は公平に連れ出された。そして手酷く打ち棄てられるのだ。
 今日こそは自分へと魔手が伸びるかもしれない。
 平静を装いながら群れに混じり、その手が別の固体を連れて去っていくのを確認するたび胸を撫で下ろす。最低の日々だった。
 

 長いこの生活の中で、同田貫は特別な知識を得ていた。
 寝静まった刀達を窺いながら、自身が凭れる壁の隅をつつくと、そこに嵌められた木板が見事に外れた。同田貫だけが知っている抜け道だ。這いずるようにしてそこをくぐれば、鬱蒼と生い茂る背の高い草が顔を撫でる。ようやく脱出したときには全身に青臭いにおいが纏わりついていたが、肺一杯に吸い込んだ空気の清々しさを思えばどうということはない。

 誰の気配もないこんな夜更けに箱を抜け出すこと。それが同田貫にとって唯一の気晴らしだった。
 月明かりに追われながら裏庭を歩く。外界へと続く門を見向きもせずに横切るのは、逃げようとしたところで無駄だとはっきり理解しているからだ。不可思議な力が働いているのか、同田貫がその門をくぐろうとすると体が硬直し、一歩たりとも踏み出せないのだ。不要なことに時間は割けない。そこを通るたびに自らに言い聞かせる。
 茂る木々が葉をこすり合う音を聴きながら、蟻の行列を跨いで石ころを蹴り飛ばす。それだけで体に溜まった瘴気のようなものが夜風に吹き飛ばされていく気がした。同田貫ごと連れて行ってくれればいいのだが、生憎そう都合よくいかないものだ。

 そうして一通り外を愉しんだあとは、決まって焼却炉の傍らにある小箱を覗き込む。
「……無残なこった」
 嘲りとも憐憫ともつかぬ視線を向けた先にあるのは、打ち砕かれた刀の柄――同田貫正国の名を持つ、いわば同田貫の分身である刀の残骸だった。
 刃は資源となり得るが、柄は何に作り変えることも出来ないようで、こうして棄てられる運命にある。それを知ったときの衝撃と来たら、刀解されるために生かされていると知ったときを遥かに上回った。人の体を斬り捨てられずとも、柄は刀の一部であり命だ。よもや粗雑に扱い、焼却炉へ投げ込むなど言語道断だと憤ったのも記憶に新しい。
 しかしそれを訴えたところで誰が耳を傾けるでもないし、第一に訴える相手がいない。だから同田貫は毎夜その柄を拾う。柄巻にこびりついた砂を拭い、胸に渦巻くやりきれない想いと共に抱き込んで弔いの場所を目指すのだ。


 広大の敷地の端、ぽつんと建った離れの裏手に足を運ぶと、たちまち噎せ返るような甘い香りが鼻先をつつく。縁側の傍ら、壁に沿うようにして生い茂る木がその香りの発生源だ。
 純白の花が月の光を浴びてぼんやりと浮かび上がる。同田貫の身の丈より少し低いくらいだろうか、まだちらほらと蕾が見受けられるその花の名を同田貫は知らない。花びらが柔らかく折り重なり、夜露を弾く瑞々しさが目を惹くそれは、ただひたすらに美しかった。
 甘い花を名残惜しむ指先を地面に這わせ、無心に土を掘り返す。花の根にぶつかるかぶつからないか、そんな際どい場所を無心に掘り続けると、あった。いくつも折り重なる、同田貫の柄だ。その上に先程回収した柄を放り、再び土を掛ける。盛り上がった土を固く踏み鳴らして、額にうっすらと滲む汗を拭った。
 この花の下に同胞を埋めること。それが同田貫なりの弔いだった。
 打ち棄てられた柄の存在を初めて知ったその夜、ふらふらと迷い込んだのがこの場所で、まだ固く蕾んだ花のあまりの白さに目を奪われた。同田貫の生きる箱の中はどこまでも暗く、そして気の滅入るような黒に溢れていたからだ。抱きかかえた刀の成れの果ては、こんなにも美しい色を知らないのではないかと思うといても立ってもいられず、せめてそこで安らかに眠れたなら、と考えたことがすべてのきっかけだった。
 この行為に価値があるのかなんて分からない。だがたとえ自己満足に過ぎないとしても、塵と共に燃やされるよりは幸福だろうと根拠もなく信じ、亡骸が沈んだ土を均すことしか同田貫には出来なかった。

 そしていつまでこの毎日が続くのだろうかと虚しさを覚えるのだ。
 刀も振るえず、あの箱の中で生き永らえることに何の意味があるのだろうか。そんなことばかり考えて、結局答えを出せず無為に時間を浪費する。
 早起きなにわとりの鳴き声に嘆息し、明るくなる前に戻らなければと身を翻したそのとき、縁側の先で音もなく開いた障子に硬直した。慌てて顔を逸らすが、そこに立つ痩躯の男は明らかに怪訝な表情でこちらをじっと見つめているのが分かる。額に噴出した汗がたらりと流れ落ちる。
「――こんな夜更けに花見か」
 男から発せられる穏やかな声に、神経質に瞬きを繰り返す。ちらりと見遣った先にある顔は、その声同様に柔和な笑みを浮かべていた。星空をそのまま吸い込んだような幻惑的な瞳がこちらを見据え弧を描く。なんと答えるべきかと唇を迷わせるが、それより早く男がなにかを口にしようとする気配に圧され、同田貫はたまらずその場から逃げ出した。土に塗れた足で地面を蹴って、必死の思いで箱の元へと駆け戻る。
「っは、はあ、……っくそ」
 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、同田貫は舌を打った。
 とんだ失態だ。逃げずとも、この邸で暮らしている『同田貫正国』を装えば良かったのだ。どうせ風貌は一緒なのだから、余計なことを言わなければ気付かれなかったに違いない。茶色く汚れた両手が気持ち悪いが、井戸のある辺りまで引き返したらあの男に遭遇する可能性もある。仕方なくひんやりとした壁に汚れを擦り付けて、充分に呼吸を整えてから箱の中へと舞い戻る。独特のにおいが同田貫を歓迎し、逃がさないとばかりに肌を撫ぜた。
 手探りでいつもの場所に腰を下ろすと、先程までの開放感が嘘のように重苦しい気分になってくるのだからたまらない。
 ここはそういう場所だ。同田貫を縛り付ける、希望もなにもない陰鬱な箱。
 四方八方から聴こえる穏やかな寝息が、彼らが見ているであろう夢が、同田貫の心を押しつぶす。お前の番だ、と肩を叩かれる日を彼らは夢見ている。今よりずっと小さな箱の中に再び放り込まれるとも知らずに、戦場で生きる未来を夢想している。それをこの手で壊すことがはたして彼らにとって幸せであるのか否か、誰も教えてはくれない。陰鬱な箱を覆う夢をずたずたに引き裂いた瞬間、彼らの生きる意味もまた死んでしまうことを同田貫は知っていた。

 あの不思議な瞳を持つ男が今夜のことをふれ回れば、この場所から同田貫が抜け出したことも呆気なく露呈するかもしれない。暗がりでは分からずとも、灯りを手にじっくりと検分すれば抜け穴の一つや二つ簡単に見つかってしまうだろう。
(――どうせ最後には殺されるんだ。これ以上答えのない疑問に振り回されるより、とっとと殺してもらったほうが楽なのかもしれねぇ)
 立てた両膝に顔をうずめ、現実から目を背けるように目蓋を下ろす。
 視界は漆黒に塗りつぶされていたし、鼻をつくのは鉄錆びと土のにおいばかりだった。たった今目にした甘やかな世界の名残はどこにも見当たらず、なかなか訪れない睡魔を前に途方に暮れる。
 あの離れには、障子を開くたびに甘い香りが流れ込んでくるのだろう。柔らかく差し込む朝日に目覚め、さわやかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込めば、どこまでも清らかな白い花が朝露を零す。同田貫の中に湧き上がる空想を、この箱で眠る刀達すべてに分け与えられたらいいのにと思った。永遠に朝が訪れないこの箱の中で、彼らは生きている。



 夜は巡り、同田貫は再びあの花の元へと訪れていた。
 掘り返した穴に放り込んだ柄の数は四。いつもより多かった。
 大抵、一度に連れて行かれる刀の数は二振りほどだったけれど、審神者は気まぐれにその数を前後させる。理由なんて資源が足りていないだとかそんなところだろう。戸が閉まる直前、高い空を見上げ、眩しそうに目を眇めた同胞の横顔が目蓋にこびりついて離れない。かぶりを振って土を被せた。
「精が出るな」
「――……っ!」
 突如、背後から聞こえてきたその声に身を竦ませる。
 振り向いた先に立っていたのは昨夜のあの男で、いつの間に近付いてきたのだろうかと困惑した。しかし同じ失敗は繰り返さない。あくまで堂々と振舞い、この邸で刀を振るっている『同田貫正国』ではないと気付かれぬように――と、めまぐるしく頭を回転させる同田貫の姿を見て、男はその顔にうっすらと笑みを浮かべる。同田貫を射抜く含みある視線に、腹の底を見透かされているような気がした。
「花見に来た、という訳ではなさそうだが」
 同田貫の手元を一瞥した男は、覗き込むように身を屈める。咄嗟に避けた土を覆い被せたが、煌々とした月は柄の形をくっきりと浮かび上がらせ、その存在を知らしめていた。男の表情が返答を促していることに気付き、ぐっと唇を噛む。どう答えるべきか分からなかったのだ。こんな場所にこんなものを埋めているなんて、どう言い訳したって不可解な行動だったし、上手く言いくるめられるほど口が達者でもなかった。
 沈黙に身を投げ出してしまえれば楽だったけれど、男の視線はそれを許さない。
「――弔いに」
 ようやくそれだけ搾り出すと、男は訝しげに眉を顰めてみせた。俯きがちに地面を均した同田貫は足早にその場を立ち去ろうとしたが、男の手がそれを引き止める。汚れた手のひらを躊躇いなく掴まれ、筋張った指の感触に戸惑いを覚えた。
「何故、この薔薇を墓標に選んだ」
 ややあって、男の言葉の意味を理解する。
 薔薇、それがきっとこの美しい花の名前なのだ。夜闇に浮かび上がる純白のそれを墓標に見立てたつもりなどないが、傍目にはそう映ってしまうのだろう。
 ふんわりと花弁を広げた薔薇が恨めしげにこちらを睨む。それはまるで『高貴な薔薇を有象無象の墓標にするなどおこがましい』と咎められているようで、なんだか無性に苛立った。
「俺たちは――こいつらは、審神者とかいうやつの勝手な都合で生かされ、勝手な都合で殺されたんだ。薄暗い箱に閉じ込められて、ささやかな資源と引き換えに殺されるような価値のない刀だ。生まれた意味なんて一つもなかったんだよ。……だから最後くらい、綺麗な景色の中で眠ったっていいだろ」
 ふつふつと沸きあがる衝動のまま、気付けば同田貫の唇は動いていた。
 何を為すことも赦されず、折られるためだけに同田貫達は生かされている。だからって弔うこともせず、ちっぽけな箱に打ち棄てていい理由にはならないだろう。塵や屑の類に混ぜ込まれ溶かされてしまうなんて、そんなのあんまりだ。
「それとも、生きた証も残せずにへし折られた刀への餞別には相応しくないとでも言いてぇのか」
 吐き捨てるように言って、窺った男の表情をはっきりと読むことは出来なかった、いつの間にか、月が翳っている。うろこのように連なった雲が空を覆って、湿った風が頬を撫ぜた。
 沈黙する男から目を逸らした同田貫は、引き止める手を振り払い早足にその場から立ち去る。背中に突き刺さる視線が何を訴えているかなんて知りたくもなかったし、何を言いたいのかなんておおよそ検討はついていた。
 その墓標は分不相応だと世界中が責めても、同田貫はあの薔薇の下に彼らを埋め続けるだろう。同田貫とて同じなのだ。死んだ同胞へ堂々と花を手向けることすら許されない、身勝手な理由で生かされ、死んでいくだけの刀なのだから。



 翌日は酷い豪雨だった。
 箱に叩きつける雨風の音に、刀達は心なしか落ち着かない様子で日中を過ごしたが、静まっていくにつれて次第に健やかな寝息をたてはじめる。
 抜け道からそっと手を伸ばすと、草の根がぐずぐずになっているのが分かった。泥まみれになってしまうだろうと思いつつ這い出れば、案の定酷い風体になり気が滅入る。鼻先についた泥を拭って、悪足掻きのように降る霧雨の中を歩いた。
 小箱に入った柄は、今日も四。柄を抱きかかえた腕に、実際の重さ以上のものが圧しかかる。
 今日もあの男はいるだろうか。
 閨として扱っているであろう離れの庭にあの男がいることは何ら不自然ではない。むしろ同田貫のほうが異質なのだから、あの男を責める謂れはないのだけれど、出来ることなら顔を合わせたくないというのが本音だ。
 そもそも、あの男は同田貫をどういう存在だと捉えているのだろう。邸で暮らす『同田貫正国』と混同しているなら好都合だが、あの男はなんとなくこちらの正体に気がついているように思えてならない。昨夜の同田貫の発言はあからさまに不自然だったろうし、刀解待ちの刀が放り込まれているあの箱の存在だって知っているはずだ。抜け道が塞がれてしまうのも、やはり時間の問題だろうか。

 思案を巡らせながら辿りついた先で、同田貫は思わず顔を顰めた。
 いる。雨粒が滴る縁側に腰掛けたあの男が、瞠目する同田貫に悠然と微笑みかけている。こんな夜更けに、ましてこんな雨の日に月見というわけでもないだろう。おそらく――いや、確実に同田貫を待ち構えていたのだ。
「なんだ、随分汚れているな。ぬかるみに足を取られたか」
 こちらのしかめっ面も意に介さぬ男から目を逸らし、雨に濡れた薔薇の元へと近付く。しかしふと、純白の花の群れに混じる明らかな違和感に視線が釘付けになった。
 華やかな赤い蕾が一つ、顔を出しているのだ。
 周囲に咲いた薔薇の白さと相まって、いっそ毒々しいくらいに鮮やかな赤だった。花のことはよく分からないが、こんな風に突然違う色の花が蕾んだりするものなのだろうか。探究心が疼くが、それを問う相手は視界の端に映りこむあの男しかいない。欲求をぐっと堪え、いつものように地面を掘り返した同田貫は、そこで再び違和感に遭遇することとなる。
「――……」
 そこに埋まっている柄の数が、どうにも少ないのだ。
 昨夜埋めた柄の数は四で、その前は二。どれくらいの期間こんなことを続けているか定かではないが、両の指を全部使っても数え切れない量の柄を埋めていることはたしかだ。しかし眼前には両の指を使いきるか否か、といったささやかな量しか見当たらない。
 もしや誰かに暴かれたのでは――と思い至ったところで、男の爪先がぬかるんだ地面を叩いた。
「花はな、地面に散らばった養分を吸い上げて育つ」
 男の草履に弾いた泥を見つめながら、同田貫はその言葉の意図が掴めずに眉間に皺を寄せる。
「落ちた花弁が地面に落ちれば、それは新たな花を咲かせるための養分となる。花弁に限らず葉や――虫や動物の亡骸もそうだな。そうやって命は循環する」
 亡骸、そして循環という単語に、同田貫はひくりと目蓋を震わせた。
 妙にすっきりした穴のちょうど真上に位置するそこに蕾む花。一際目を惹く赤い薔薇が、同胞の柄――亡骸から養分を吸い上げ育ったとでも言いたいのだろうか。無機物と化した同田貫達の残骸に宿っていた命が、再び巡って花となった。だから大量の柄が姿を消したのだと、男はそんな荒唐無稽な話をしているのだ。

「はて、そうなるとその赤は何の色だろうな」
 胡散臭く首を傾げる男を笑い飛ばすのは容易かった。しかし同田貫の目を惹き付けるその色は、男の言葉や胸に込み上げた疑念を裏付けるように深く、赤い。
「……血の色だ。俺の、同田貫正国の」
 薄汚れた柄を見下ろし、単語の一つ一つを噛み締めながら呟く。
 同田貫正国の名を携え生きたこの刀の残骸にも、確かに血が流れていた。骨があり、肉があり、脈打つ心臓があったのだ。
 男の言葉に信憑性など欠片もないが、同田貫はそれが真実であるのだと漠然とした確信を抱いていた。戦場で刀を交えることも叶わず、一度たりとも流すことのなかった血が、その蕾んだ薔薇に脈々と注がれている。花を咲かせるため、今も懸命にそのすべてを与えているのだ。
「生まれた意味など一つもない――お前はそう言ったが、はたしてそうだろうか」
 男の声が鼓膜を渡って心臓におちる。
 それはあまりにもささやかだった。刀として生まれた意味と主張するには些か逸脱しすぎていたし、ちっぽけで、夢見がちで、そして儚かった。
 死してようやく、彼らは生まれた意味を手にし、生きた証をその花に刻んでいる。

 同田貫は込み上げるものをぐっと押さえ込み、新たに持ち寄った柄を穴の中へと入れた。もはや泥と言うべきその土を丁寧に被せ、祈りを込めて均す。どうかこの刀達も、根を昇りやがて鮮やかな花を咲かせますように、と。
「そら、受け取れ」
 ふと息を吐いたところで、男がこちらに手ぬぐいを差し出す。いつの間にか膨らんだ雨粒は、同田貫の体に付着した泥を流しきらんとばかりにとめどなく降り注いでいた。乾いた手ぬぐいはすぐにじっとりと濡れそぼっていくが、冷え切った肌を包み込む感触は柔らかく、そしてどこか温かい。
 すっかり薄汚れてしまった手ぬぐいを、男は嫌な顔一つ見せずに手にすると、空いた手で同田貫の濡れた頬に触れた。
「また来い」
 指先は慈しむように肌を撫ぜる。間近で見る男の瞳は、遠目から見たそれよりもずっと美しく、幻惑的だ。星空に浮かべた月の上には、ゆっくりと頷く同田貫の姿が小さく映り込んでいた。




 数日前の悪天候が嘘のように、乾いた空気が木々を揺らしている。見上げた夜空には無数の星が散りばめられ、撓った月は穏やかに世界を照らしていた。
 同田貫は今、縁側の端にぼんやりと腰掛けている。一寸ほど離れた先に座したあの男に、たまには花見に付き合え、と引き止められたことで陥ったこの状況に、同田貫は少なからず困惑していた。対する男は飄々と花を眺め、ふと同田貫を一瞥してはふわりと柔らかな笑みを浮かべる。
 あれから、男は毎夜この縁側で同田貫を待ち構えていた。何をするでもなく、同田貫が抱えた柄を埋める姿を見つめ、そうして咲き誇る赤い薔薇に視線を移す。ただそれだけだ。だからこそ、突然引き止められたことへの戸惑いも大きいのだ。

 赤い蕾は、翌日にはその花弁を広げ始めた。もうすっかり満開となったその薔薇は甘い香りを放ち、赤はより深みを増している。傍らにそっと寄り添う新たな蕾も、それほど経たない内に大輪の花となるだろう。
 咲き誇る赤い薔薇は、刀の生きた証であると同時に死した証でもあったから、目にするたびに同田貫は喉がからからに渇いて、妙にやるせなくなる。しかし男がその薔薇に視線を注ぎ、一心に愛でる姿を見ていると、それだけで救われた気持ちになるのだ。
「あんたは、あの花が好きなのか」
「ああ、好きだ。どうも際限なく見入ってしまうな」
 淀みない答えに同田貫の心はじんわりと熱を持つ。
 あの箱の中では決して目にすることのなかった月の光や朝日、時にはあたたかな雨粒に、そして男の慈愛に満ちたまなざし。花となった彼らに降り注ぐものは何もかもが真新しく、美しかった。

「――もう行ってしまうのか」
 にわとりの鳴き声が響き渡ると同時に、同田貫は地面を踏みしめていた。
 名残惜しげな男の声に振り向いて、謎めいた双眸を見据える。唇が迷うのはなんと答えるべきなのか分からなかったからだし、引き止められるがままに留まっ
てしまおうかと心が揺らいだからだ。しかし同田貫は胸中で小さくかぶりを振る。同田貫の帰るべき場所はどうしたってあの箱の中以外にはなり得なかった。
「……また来る」
 呟いた声は微かだったが、男の耳にはしっかりと届いたらしい。笑みを湛えて頷くその顔をどこか気恥ずかしさを覚えながら、同田貫は一歩を踏み出した。
 すっかり通りなれた道を、余韻を愉しむようにゆっくりと踏みしめて歩く最中、明日もあの場所へ赴くことを約束するなんて残酷で仕方がないな、と漠然と思う。それはあたかも同胞の死を願っているかのようにも取れたからだ。
 弔いという名目を持たずにあの場所へ向かう日がいつか訪れたら良い。小箱に閉じ込められた柄に胸を痛めることなく、命が眠る薔薇の下にこれ以上亡骸を埋めることなく、ただ彼らが生きた証を眺めることの出来る、そんな日が。
 それは夢物語に過ぎないと分かっていた。けれど、願ったり祈ったりするくらい、同田貫にだって許されているはずだ。
 辿り着いた箱の中に身を落ち着けると、いつもより幾分か穏やかな気持ちで眠りに落ちる。

 ――夢の中で、同田貫は戦場を駆けていた。刀の切っ先が敵の喉を掻き切り、洗礼のように降り注ぐ血しぶきを浴びた体は高揚している。邸へと帰還した同田貫は、興奮冷めやらぬままあの薔薇の元へと向かい、大将の首の代わりにたくさんの土産話をしてみせた。いつの間にか傍らに寄り添っていたあの男と共に露を滴らせる赤い薔薇を愛で、そうして再び唇を動かすのだ。

 目を覚まして間もなく、戸が叩かれる。
 耳障りな開錠音のあとに姿を現した審神者は、いつものように刀を選別し始め、ふと、その視線が同田貫の元で止まった。
 すう、と伸びた手が自身の腕を掴む光景を、どこか他人事のように見つめていた。
 とうとう、順番が巡ってきたのだ。

 目を突き刺すような強い日差しの中を歩いているときも、これから刀解されるのだという実感はなかなか沸いてこなくて、青い畳のにおいが充満したその部屋に辿り着いてようやく、ふわふわとした曖昧な感覚が薄れる。
 審神者は、何か最期に望むことがあれば、と同田貫を促す。お前たちは『戦に出させろ』とそればかりでかなわん、と胡乱な目を向ける審神者を前にして、同田貫は酷く冷静だった。もっと取り乱すだろうと予想していたのに、心にぽっかりと穴が開いてしまったように感情が上手く動かせない。
 望むことなんて数え切れないほどあったけれど、一番に口を突いて出る望みがどんなものであるのかははっきりとしていた。

「俺と、それから箱に入っている同田貫正国すべての柄は薔薇の下に埋めてくれ。――離れの裏にある、あの薔薇の下に」

 何故その存在を知っているのか、と審神者は怪訝な顔をしてみせたが、頑なに口を閉ざす同田貫を執拗に問い詰めることはなかった。
 
 すらりと伸びた刀身に、硬質な槌が添えられる。
 ――死が恐ろしくないかと聞かれたら嘘になる。きっと今、同田貫は随分と酷い顔色しているに違いない。
 結局なにを残すことも出来ないまま、同田貫はこうして死んでいく。だが、やがて同田貫は花となり、あの庭に咲くだろう。それこそが刀として生涯を全うすることが出来なかった同田貫の生まれた意味となり、生きた証となる。
 審神者の手が大きく振るわれた瞬間、同田貫の頭を駆け巡ったのはあの赤い薔薇の花弁と、微笑む男の姿だった。生まれた意味を同田貫に与えてくれた、名も知らぬ男の手がゆっくりと伸び、頬に触れる。




「――っ」
 そこに手を伸ばした途端、棘が指先を突き、裂けた皮膚に血の玉が盛り上がる。
「ああ、やってしまったか」
 嘆息と共に傷口に舌を這わせた三日月は、鉄の味に眉を顰めながらも作業の手を休めることはない。
 三日月の眼前では、いくつもの純白の薔薇が大きく花開き愛嬌を振りまいていた。その内際立って美しい薔薇を一輪、剪定ばさみを扱い器用に詰むと、切り口を整えて水桶に浸ける。
「ねえ、それってどうなってんの? 赤い薔薇と白い薔薇の種が混じってたとか?」
 所要の為にこの離れを尋ねてきた加州が、花の群れをしげしげと見つめ首を傾げた。この木に咲いた薔薇のほとんどは純白だったが、二輪だけ赤い薔薇が混じっている。彼はそれを疑問に思ったのだろう。はさみも使わずに抜き取ったそれを縁側に置くと、加州は怪訝な顔でその切り口を見つめた。
「――なんだ。どっかで摘んできたのを引っ掛けてただけってことね」
 白けた、と言わんばかりに首を竦めた加州が書物を片手に去っていく。

 引っ掛けていただけ、というのは間違ってはいないが、どこで摘んできたわけでもない。
 先程薔薇を浸けた水桶、そこに張った水は色を持っていた。唇や眦に引く紅をたっぷりと溶かした、血のように赤い色の水だ。そこに白い薔薇を一日も浸けていれば、色は茎を昇って見事な赤い薔薇を作り上げる。そうして出来上がったものを、三日月はこの木に掛け、一見すると分からぬように馴染ませているのだ。
 何故そんなことをしているのかと問われれば、この場所に訪れる一振りの刀のために他ならなかった。生まれた意味など一つもないと悲痛な声を上げたその刀に、何かを与えてやることは出来ぬものかと考えたのが発端で、それ以来、三日月はそこに赤い薔薇を咲かせるようにしている。

 弔いのためにと、自らの同胞をこの薔薇の下に埋葬するあの刀。彼はここのところ姿を現さない。しばらく悪天候が続いたためだろうか。しかし今日の空は快晴で、雨にぬかるんだ地面もすっかり乾きかけている。
 今日の晩こそ彼が姿を現すに違いない。そう考えると、三日月の頬は自然と綻んだ。

 足元に置いた大きな籠の中には、刀身のない無数の柄と共に少し萎れた白い薔薇が散りばめられていた。新たに摘んだ薔薇とそれらを入れ替えるために身を屈めたとき、木の根の辺りにぽつんと蕾んだ花が目に留まる。
 それはほんのりと赤く色づいた薔薇の蕾だった。しかし、三日月が仕掛けたものではない。
 しっかりと木に根付いたそれに指先で触れ、どこか釈然としないまま愛らしい赤をぼんやり眺めた。少しばかり小ぶりで、きゅっと固く蕾んだところがあの刀に似ていると思う。だがこの蕾もやがて柔らかく解け、花弁を大きく広げるのだろう。
 陽が暮れ、夜が更ける頃が待ち遠しかった。新しい花が蕾んだと、早くあの刀に伝えたい。